Hさんへの手紙

 昨晩はどうもありがとう。
 いくつか言い忘れたことがあったので思いつく限りで補足します。こういう公開の場所に書いておけば、詳しい人が間違いを正してくれるかもしれないし。


 昨晩も話したとおり、法律学者という存在はある意味経済学者以上に、閉じた世界で仲間内だけの話をしているよね。しかも普通のオタクと違って、彼らの閉じた議論は現実のエスタブリッシュメントとして力を持ってしまって、我々にも影響力を及ぼしてくるのに、我々外野には彼らのやっていることを十分にチェックできない。
 しかしその中でも憲法学というのはちょっと特殊な位置にいて、ある意味我々外野にとっての、法律学ゲットーの壁にあいた穴、という意味を持っていなくもない……と思う。


 憲法学について、これは基本的には安念潤司石川健治といった諸先生の受け売りの域を出るわけではないのだけど、理解している限りで少し書いておきます。
 もともと憲法学という領域は法律学全体の中でそれほど地位が高いわけではない。また憲法学の中での学問的評価の高さが、実際の政治や法解釈への影響力に直結しているわけでもない。
 たとえば、いみじくも君が言ったように、我々が学生だった頃母校で教鞭をとっておられた杉原泰雄先生など、確かに学界の重鎮で、学者としての実力は誰しもが認めるものだったけれども、最高裁判例や国会での政府の憲法解釈に対しての影響力は、普通の意味ではほぼ全くなかったわけだ。人民民主主義路線の杉原憲法学にしても、あるいはその強力なライバルとなった樋口陽一先生の立憲主義憲法学にしても、裁判における法の解釈適用や、制度設計の具体的指針を提出する技術というより、近代国家についての社会科学・プラス・規範的政治理論というべきものであったように思われる。
 その後続の、90年代の研究をリードした世代もまたこの点では同様だったと思われる。若い世代に大きな影響力を持った長谷部恭男先生の仕事を安念先生は「メタ理論」と呼んだ。彼の「メタ理論」的な仕事は政治哲学・法哲学の議論によって憲法解釈論の基礎付けを行おうというもので、ある意味杉原・樋口以上に法律学徒以外への訴求力を持つものとなったとは言えるけれども、法解釈学としての憲法学のリハビリテーションとしては依然迂回路をたどっているといえなくもない。
 司法試験受験生などの間で今日なお「通説」「神」として遇される芦部信喜の業績の意義のひとつは、アメリカ合衆国から「憲法訴訟論」を輸入し、大学・司法修習所等での教育実践を通じてその定着を図ったこと、すなわち司法審査制度の下での裁判規範として憲法を生かすことを本気で試みたこと、にあるのだと思う。ただこちらの方もアメリカの判例理論から違憲審査の「基準」を抽出し、それでもって日本の憲法判例を読み直す作業は行ってはいるものの、日本の裁判所――最高裁憲法判断のロジックの内在的な再構成はできておらず、ただ最高裁判例に対して外在的に「基準」を当てはめて批判する以上のことが十分にできていないのでは、という批判がなされているらしい。 近年ではドイツ憲法学から「三段階審査」という新しい枠組が輸入されているけれども、油断すれば同じ轍を踏む羽目になるだろう。
 この辺を踏まえて、「比例原則」という考え方でもって日本の最高裁憲法判断のロジックを内在的に再構成した上で、ドイツ風の「三段階審査」も別様に組み替えた上で日本での憲法解釈に応用しようとするのが石川健治先生だが、彼が駒村圭吾・亘理格両先生との『法学教室』リレー連載において心がけていたのは、他の法律学諸分野との連絡を深めることだ。裁判所が憲法判断をする場合というのは結局、個別の事件において特定の法律が違憲かどうかが問われる場合なので、当たり前の話だが憲法だけを見ていても理解できるはずがない。行政法を中心に民法その他「普通の法律」の解釈論の知識が必要になる――というわけで憲法学の法律学のなかでのゲットー化を打破しようという問題意識がそこには見られる。
 ただしこういう作業は、技術としての憲法学のリハビリテーションとして、法律学のなかでの憲法学ゲットーの破壊作業という大変健全な方向に則ったものであると同時に、我々法律素人にとっては、憲法学を法律学ゲットーの中に囲い込む作業にも見えてしまうのだな。


 『ふたつのスピカ』『パンプキン・シザーズ』はやっぱり、1巻だけでは全然面白くないよね。どの辺まで読んだら面白くなるかなあ。やっぱり、2、3巻まで付き合わないとだめかな。


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