アメコミ論争再訪

 堺三保さんのmixi記事転載の許可は得られませんでした(田中ブログでのコメント以上の論点は出していないので再掲は無駄、とのこと。ちなみに堺さんは山本さんの「と学会誌」原稿についてはまったく関知していなかったそうです)ので、了承の得られた海法、柳下、そして稲葉の発言のみを整理して再掲します。(「garth」とあるのが柳下さんです。いったん掲載した山本さんのコメントは、ご要望により再消去しました。論脈を追うにはそれでも問題ありません。)
 これに伴い、元記事と海法さんによるコピーを削除します。
 関係者は「無駄」「消耗」とのご感想が多いようですが、それなりに面白いと思う私には当事者意識が欠けているのでしょうか。
 この議論の流れに似たものを最近見かけたような気がするんですよ、ほれ、あのqwertyの話とか。(あれは荒れませんでしたけど。)

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2006年05月21日
11:57 garth

規制>市場縮小>多様性減少 というストーリーに関して言えばハリウッドとヘイズ・コードという強力な反例があるわけですが、まあそんなことを言ってもしょうがないか。

田中氏を納得させる「ファクトファインディング」に関しては、たぶん数字を出してあげるといいんだろうと思うな。発行部数とかタイトル数とかといった統計資料を。
増田本でそこらへんがどうなってるのか知らないけど。


2006年05月21日
23:49 shinichiroinaba | 削除

各論や事実認識ではおかしいところはあっても、仮説の提示としては面白いと思いますが、いかんのでしょうか。細かい事実認識を正すことによってその主張がよりヴァリッドになる可能性もあると思いますが>増田本。
あの本は基本的には『高度成長は復活できる』『国家破綻はありえない』などとあわせて読まれるべき本、つまりは日本経済論であって、ポップカルチャー研究書ではありません。その辺の認識が堺さんにも海法さんにも欠けています。
ちなみに大塚英志の作業も、文芸批評であって文学研究じゃないですね。

ぼく自身はところどころナショナリスティックな口吻に疑問を感じはしますが、「女子供文化を馬鹿にするな、それこそが健全な市民社会の下部構造だ」という主張はまっとうですし、日本のサブカルチャーがそうした下部構造の役割を果たしていたという仮説も真摯に検討するに値すると思います。ただその際、比較の対象としてのアメコミやアメリカのサブカルチャーがやや矮小化される嫌いがあったかと。大塚の指摘する、「日本サブカルチャーアメリカ起源説」にも無論一理はあるでしょう。
ぼく自身はあの本を読んで、むしろ「ハリウッドは馬鹿にできない」とか、「マーヴェルやDCはともかく、ディズニーにハンナ・バーベラはすごかった」との思いを強くしましたね。




2006年05月22日
15:20 海法@式神作家

お久しぶりです>稲葉さん。

悪い癖が発動して無駄に絡むモードに入っているので、そろそろ風呂敷を畳もうと思います。

それはそれとして。

アメコミへの愛と理解をギャラリーの間に広げることは既に放棄しましたが、増田氏はともかく、田中氏の議論の進め方、思考法には深刻な欠陥があると思い、それを示せれば、と思うmでです。


2006年05月22日
22:37 海法@式神作家

 つーわけで、コメントデリられて終了。デリられたコメントの要約は以下の通り。

・科学であるなら常に反証可能性を意識せねばならない。
・規制が多様性を活性化させた、という理由も、その逆も、理由だけなら、いくらでも考えられる。
・それなしでは、あらゆる事実に、自分の好きな観点で説明をつけた「史観」ができあがる。そんなものに価値はない。
・田中さんが、「規制が多様性を活性化させた」と結論しうる事実は、例えば、どんなものが考えられますか?

 あーいや、愚痴で申し訳ありませんが、報告する次第です。


2006年05月23日
12:25 shinichiroinaba | 削除

削除された海法さんのコメントは田中さんのmixi日記で拝見しました。
明らかに海法さんに非があります。ご自覚どおり「無駄に絡む」の典型ですね。
反証可能性」概念を半端に振り回して揚げ足取りのおもちゃにしているだけです。
反証主義」を文字通りに取るのは馬鹿のやることです。理論そのものへの決定的反証なんか滅多にでませんし、出たところで、理論体系全体を放棄する必要は多くの場合ありません。
残念ながら海法さんのおっしゃりようは、経験科学にも科学哲学にも素人の戯言です。

全体としては完全にアメコミ擁護派の負け。それというのも主要論点をスルーしてアメコミの市場が縮小したか拡大したか、中にはましなものがあるかないか、というどうでもよい論点に固執したからです。



2006年05月23日
12:39 shinichiroinaba | 削除

まあ彼も純朴な学者ではなく、ジャーナリスト出身の半ごろつきですから、ブログ移動とかしてますけど見た目ほどは傷ついてはいませんよ。
堺さんは「きちんと具体的なネタをあげてくれている」と、結構高く評価されています。



2006年05月23日
12:56 海法@式神作家

田中さんのmixiで書かれておりましたか。
個人的には閲覧できないので正確性が気になりますが(コピーを手元に残して丘名かった海法のミスでもあります)さておき。

まず海法は今回「アメコミ擁護派」ではありません。
アメコミの素晴らしさをその場のギャラリーに説くことは、既に放棄したと、こちらのコメントで書いた通りです。

はたでそう見える、という話でしたら、田中氏の本文をまともに受け入れるギャラリーに対しては、堺さんの書かれた通りです。

>「反証主義」を文字通りに取るのは馬鹿のやることです。理論そのものへの決定的反証なんか滅多にでませんし、出たところで、理論体系全体を放棄する必要は多くの場合ありません。

「理論体系全体を放棄」することは別に求めていません。
つーか、規制が多様性を殺ぐ方向に働くことが多いのは、全く反対しません。

一方で、反証可能性を「全く」意識してない議論は、無意味と考えます。

稲葉さんにもお聞きしたいのですが、事実固めをろくにおこないもせず、数値も検証せず、「規制が多様性を増した場合」「増さなかった場合」に対する判断基準のもっとも基本的なところも示そうとしない「史観」って、何か価値があるのですか?


2006年05月23日
14:10 garth

>さらには、あのやりとりを「全体としては完全にアメコミ擁護派の負け」と解釈するのか。

そりゃあアメコミオタクの人たちが「細かな重箱の隅つつきにこだわるオタク」という偏見通りの行動を見せてしまったからでしょう。
「やっぱりオタクってしょうがないよね」と思われた時点で負けってこと。


2006年05月23日
15:49 shinichiroinaba | 削除

柳下さんのおっしゃるとおりです。

大雑把に言えば、日本ではアメコミ愛好者の総数より、経済・ビジネス書愛読者数の総数の方が上回ると思われます。これを更に限定して、トンデモとはいえない、ある程度学術的基準をクリアした経済学・経営学書にまで拡張しても、多分同様のことがいえるでしょう。

しかしながら当然、日本のまんが・アニメ愛好者の数は、すべてを吹き飛ばすわけです。さて問題は、これを全世界的なスケールでみた時にどうなるか、ですな。
増田氏の見立てでは、近い将来、それどころか現時点で既に、全世界のアメコミ愛好者の数を、日本まんがのそれがしのいでいる、というわけですが。

「量だけが大事か!」といわれると困るので、私見を述べます。音楽学者の岡田暁生は『西洋音楽史』で、近代西洋音楽史においては、19世紀ロマン派時代に完成をみたようないわゆる「クラシック」と、第二次世界大戦後のモダンジャズの隆盛という風に、伝統との接続と先鋭な実験性、そして大衆的支持の幸福の幸福な調和が少なくとも二回は見られた、論じています。それとのアナロジーでいえば、手塚治虫以降の戦後日本まんがは少なくともある時期までは、やはりこの幸福な調和を見ることができた、とぼくは思います。それに対していわゆるアメコミにおいては、そういう調和はついに訪れないままであると思います。
アニメに対しては、評価を保留したいところはあります。ディズニーやハンナ・バーべラの伝統は侮れない、と感じますし、『サウス・パーク』も『シンプソンズ』もアメリカ製です。
また非ストーリー系のコマまんがについても、いしいひさいちの登場までは、決して日本のほうが勝っていたとは思えません。しかしいしいの出現はすべてを変えてしまった。

あともうひとつ論点を出します。
ぼくは増田本については、『ヒーロー』に限らず危ういところが多い、とは思っています。すなわち「中間層の教養がそこそこ高かった戦後日本社会(戦後民主主義?)は素晴らしい」という本旨を主張するために、しばしば勇み足を冒しているように見える点です。アメコミに対する点の辛さはまさにその典型で、別にそこまでアメリカと比較して、アメリカをおとしめなければ、日本のよさを発見できない、というわけでもないと思うのですが。



2006年05月23日
16:03 shinichiroinaba | 削除

念のため注記しますと、先に田中さんのことを「ジャーナリスト出身の半ゴロ云々」と申しましたが、彼は勤め人・ライター稼業を経て大学院に戻り、きちんと経済学の訓練を受けていますから、「純朴」ではないにせよ専門分野(日本経済思想史)についてはまともな学者です。ただ、怪しい雑文書きとしてもプロだ、ということです。



2006年05月23日
16:51 garth

個人的には些末なオタク的突っ込みに耐えられない議論は駄目だと思いますが、それは個人的な意見でしかない。そうではない、と思う人もいるということです。

田中氏や山形の態度が「リフレ派っていうのは実態データを見なくても教科書通りに公式をあてはめていればすべてを解決できると思っている人間だな」という偏見を強化する方向に働く可能性はあるかと思いますが、それを矯正するのはぼくでも堺でもなく稲葉さんの仕事でしょう。

ぼくが気になるのは
>それに対していわゆるアメコミにおいては、そういう調和はついに訪れないままであると思います。
この辺で、少なくとも視野をエンターテイメント全体の領域に広げれば、『バットマン』にはじまるアメコミ映画がまさにそうした頂点をきわめているのは明確に思えます。
コミックについてもアニメについても、アメリカの場合は日本とは比較にならないほどエンターテイメント産業の一分野として発展してきたわけで、その点を無視して議論を進めるのは無意味(あるいはアンフェア)であるとしか思えないわけですが。まあそこまで話を広げてしまってどうか、という問題でしょうか。



2006年05月23日
17:00 海法@式神作家

えーと、稲葉さん、すいません。

「アメコミ愛好者の数」と「日本漫画好きの数」の、どちらが多いかが、議論にどう関連するのかが、全くわかりません。

私は、田中さんとそれを問題にしたことはありませんので。

ちなみに、数に関しては事実検証の問題だし、「質」に関しては定義の問題になるので、海法にとってそれは論点になりえません。

ちなみに海法個人の立場としては、アメコミと日本漫画は、手塚治虫の昔から、それぞれ影響を与えてきたわけで。質を比べるのは意味がないと思いつつ。どっちか選べと言われたら、日本漫画を選びます。

ただ、「いしいひさいち」を出すなら、「ピーナッツ」を出さないといかんでしょうね。「ディルバート」でもいいですが。増田氏の考える「アメコミ読者」に、「ピーナッツ」の全世界の読者は入ってるのかなぁ、と、思いますね。

えーとまぁ、そういうことはともかく。もう一度稲葉さんにおたずねします。

>反証可能性を「全く」意識してない議論は、無意味と考えます。
>事実固めをろくにおこないもせず、数値も検証せず、「規制が多様性を増した場合」「増さなかった場合」に対する判断基準のもっとも基本的なところも示そうとしない「史観」って、何か価値があるのですか?



2006年05月23日
17:11 海法@式神作家

>増田氏の考える「アメコミ読者」に、「ピーナッツ」の全世界の読者は入ってるのかなぁ、と、思いますね。

非ストーリー系のコマ漫画を持ち出したのは稲葉さんであって、増田氏ではないので、ここは余計な一文でした。

とまれ、日本とアメリカを比較した場合、とかく「日本の漫画全体という集合」と、アメリカの漫画媒体の中の一つである「ヒーローアメコミ」だけを比べられることが多く、それは不当でる、と、言い換えておきます。

(それはそれとして、日本の漫画の多様性は、アメリカの漫画の多様性を上回っている、と、個人的には判断しています)



2006年05月23日
17:28 shinichiroinaba | 削除

>柳下さん

そこは気になっているポイントでした>アメコミ映画。
メディアミックス、多メディア展開についてはアメリカのエンターテインメント産業ははるかに日本の先をいっているし、その優位は崩れにくい、という点では大塚の方が増田より圧倒的に正しいでしょう。
逆説的にも、増田が称揚する日本マンガの優位は、大塚のいう「アトムの命題」の伝統にこそ存している、とぼくには思われます。
増田本を批判するなら、こういう柳下さん流の、明確な構想をもって話を広げまくるやり方のほうが有効だと思います。

話題をちょっと変えますと、ポパー反証主義というのは検証主義の批判として出てきたのであって、つまり「「つねにこうだ」という検証は厳密には不可能だけど、「こういう反例がある」という反証は厳密に可能だ」という話ですよね大雑把に言えば。
ただ、実際の実証研究においては、そういう戯画化された検証・反証などありえませんよね。実際には「だいたいいつもこうである」と統計的に検証・反証するしかない。ことにフィールド科学ではそれが普通です。つまり反証例は、それがあくまでも個別的なものにとどまるなら「例外もあるかもね」とか「計測の誤りかしら」とかいう解釈によってならされてしまうかもしれない。
更にここにクワインによってメジャーになった「ホーリズム」が絡んできます。極論すれば、テストされるのは個別の命題・仮説ではなく、全体としての理論ネットワークそのものである、というあれです。反証にみえる逸脱事例を真剣に取り上げて、おおむねよい成績を上げてきた既存の理論体系すべてに重大な修正をほどこすべきか、それとも個別事例を「例外」と考えた方がよいのか、についての問いは、こう考えると更に一層やっかいなものになります。



2006年05月23日
17:47 shinichiroinaba | 削除

堺さん、海法さん
ぶっちゃけた話、この議論は結局は「開放性」と「数の大小」の問題に収斂していく、と私は考えています。市場が開かれているか、それどころか市場ではない公共圏までも開かれているか、その中でたくさんの人が作品を作り、更にたくさんの人が作品を消費し、という場所の規模がどれくらいか、そこでどれくらいの密度で活動がなされているか――結局話はそこに帰着してしまいます。
ですから、圧倒的に質的に高い傑作を結構な頻度で生み出しているサブジャンルが存在していても、その規模が小さければ、社会的なインパクトは少ない、有意性はない――そういうレベルの話なんではないでしょうか。

それと、くり返しますが、普通の人から見れば増田さんも十分「アメコミ好き」の部類にはいりますよね。『ルーニー・チューンズ』へのリスペクトなど、実にほほえましいものです。「だからこそ許せん」ということにもなるかもしれませんが。

ところで「ピーナツ」のことはもちろん念頭にありました。だからこそ「いしい以前には」と申したのです。
しかしながらたしかに、増田本はヒーローアメコミの話ばかりで、たとえば「ピーナツ」の話が一言もない。これはなんとも解せぬ話ではあります。



2006年05月23日
17:50 海法@式神作家

>稲葉さん
フィールド科学において、白黒で割り切れない部分は数多くあると思います(そも理論物理でも数学でもありますし)。

無理矢理重箱をつつけば、なんだって、言いくるめられますし、そういうことを私はしたいとも、したとも思っていません。

一方で、反証可能性を全く意識しないで、「俺の理論に入るものは正しい」「入らないのは例外」という論の進め方は、問題がある、というのは、まさか、稲葉さんに言うまでもありませんよね?

で、どうするか、という話です。

反証可能性オッカムの剃刀で、全てが解決できるというつもりはありませんが、それを全く意識しないで議論を進める人間は、科学の観点から立てば、能力不足か詐欺師かその両方だ、と俺は思います。

もちろん、例えば、科学の成立自体を問うような深い哲学レベルでは、そうした素朴な実証主義自体が問題を投げかけられますが、「アメコミと漫画の多様性」というのであれば、押さえるべき基本データも、提示できるモデルも、統計調査の方法論も、いくらでもあげられるでしょう。

「こういう調査をして、こういうデータがでれば結論1」
「こういうデータなら結論2」

というのを最初に考えるものではないんでしょうか?

もちろん、その上で、出てきたデータや、現場の生の声に触れて、当初のモデルを修正したり、割り切れないものをどう勘案するか考えたり、するのは当然です。
あるいはまた、そうして数字に落とすことによって、様々な弊害や嘘をつく余地ができる危険というのもわかりますが。

ただ少なくとも、全くの恣意的なこじつけは、論外だと思うわけです。

その点については、納得いただけますか?



2006年05月23日
17:52 shinichiroinaba | 削除

ところで堺さん、大塚本って『ジャパニメーション』ですよね、どこがどうまずいんですか?
アジテーションとしてはよくできている、と思うんですが。アジテーションだから?


2006年05月23日
17:56 海法@式神作家

>ぶっちゃけた話、この議論は結局は「開放性」と「数の大小」の問題に収斂していく、と私は考えています。市場が開かれているか、それどころか市場ではない公共圏までも開かれているか、その中でたくさんの人が作品を作り、更にたくさんの人が作品を消費し、という場所の規模がどれくらいか、そこでどれくらいの密度で活動がなされているか――結局話はそこに帰着してしまいます。

これについては、全く大賛成です。
で、例えば、「数の大小」、「開放の度合い」については、実数調査や、理論的定義、手続き的定義はできますよね。

そこにおいて、現実的な調査、あるいは、仮想的なモデル組み立ては充分にできるわけで。反証可能性を意識して、「こういう調査で得られるこういうデータを、市場、開放性、多様性と定義する」として、「もしこうだったら日本漫画はアメコミより多様である」「こうだったら逆である」という思考実験をして望むのは、学者にとって基本ではないですか?


2006年05月23日
18:08 shinichiroinaba | 削除

田中さんが規制の効果について論じていることは、まったくの恣意的なこじつけとは思えません。既存の経済学の常識からすれば、まあ納得がいく解釈です。海法さんたちが挙げている事例をも、単なる例外どころか、それなりに包摂して解釈することも可能な枠組みでしょう。
もちろん、他の解釈を、経済学の常識に矛盾しない形で展開することも可能でしょうけれど、それを海法さんがイチから勉強してやる暇はないでしょうねえ。誰かがやってくれるとほんとはいいんだけど。
一応田中側に立って言ってみますけど、経済学においては、まずは「規制はヤバイ」という仮説から考えてみることが、全ての出発点である、ということですよ。彼がしつこく「デフォルト」と言ってるのはそういうことです。この仮説はしかも単なる仮説ではなく、理想的な条件では充たされているはずの「ベンチマーク」、特権的な、いわば決して捨てられない仮説――捨てられるのではなく、保留されるだけ――なんです。

あと、もちろん海法さんの場合は、ディベート論法もあれだったけど(論理的整合性ばっかりを強調して、事実を解釈するモデルを提示してくれない、と思われましたね)、連投がまずかったみたいですよ、やっぱり。あのペースは非常識と思われても仕方ないもの。最初彼は「一人二役」を疑ってたくらいですからね。
ひょっとして過去の――たとえば三枝騒動の記憶が体に残ってて、ついつい同じような対応をしてしまった、ってことはありません? 
まああの程度の連投、許容範囲内と思う人もいれば、思わない人もいるということで、海法さんが「悪い」と客観的に言うつもりはないけど、田中さんが感情を害したのは確実ですね。
それに、これはまったく堺さんにも海法さんにも責任はないんだけど、ちょうど他の厨房が最近界隈に沸いてでてたから、それでちょっと神経質になってたんでしょうねえ。



2006年05月23日
18:12 shinichiroinaba | 削除

まあ関係者の頭が冷えたところで、改めて、基本的には柳下さん的(というと不本意かもしれませんが)な大風呂敷戦略で、かつ経済学的に議論を再開できればよいのですが。



2006年05月23日
18:32 海法@式神作家

さて稲葉さん。途中経過をご覧になっていただければわかる通り。

私は、「規制は作品の多様性を破壊する」というのは、そもそも基本的に賛成なんです。「競争主義が多様性を育む」というのも。

これは、現役オタク、ラノベ書き、エロゲライターとしての本音です。無論、常にいつもそうなるという話ではありませんが、基本的には、それが世の常だと思います。

※あるいは、規制が減り、競争主義が良い具合に多様性を育むような環境を作るのを、日々の目標として頑張っている、と、言ってもいいでしょう。

ただ、
「それだけだとすると当たり前すぎて、何も言ってないに等しいんじゃない?」
「当たり前のことを歴史に照らし合わせて実証することに意味がある」
「全くその通りですね。じゃぁ実証しましょう。事実の間違いを認めて、実証する場合のモデルを出してください」

という質疑応答をしただけなのですが。その途中で、様々な衝突が起きました。

堺さんと海法が一人二役に見えたであろうというのは確かですね。それについては、きちんと自己紹介せずに入った海法が悪かったとは思います。

ただし、(wとか当てこすりせずに聞いてくれれば、「自己紹介が遅れました。こういうサイトを持っています」くらいのことは言えたのですが。

ちなみに、あしあとに田中さんのがあったので、とりあえずの身分証明はできているでしょう。

連投で、他人を感情的に追いつめるのは、私の悪い癖の一つなので、今後は改めたいと思います。

単に自由業なので、一日中掲示板に貼り付いていられる、というだけなんですけどね。田中さんの返信ペースも早かったので、(最初の3連投ミス以外は)気にしていませんでしたが、もう少し気にしようと思います。

……えーと、ここでのコメントも連投が過ぎますね。頭を冷やそうと思います。

とまれ、今回は、最初の自己紹介の欠如も合わせて、本来、呼ばれていない場において、自身の信用を顕さずに、無礼な行動が過ぎたとも思います。

稲葉さんにあやまっても、仕方のないことではありますが、反省として述べる次第です。



2006年05月24日
10:35 海法@式神作家

さて、一夜明けましたが、頭は冷えていません。

「規制は良くないがデフォルト」の話ですが。

えーと物理においては大きなデフォルトとして「質量保存則」がありますが、「質量保存則が破られた事例」を仮想するのは、簡単です。
第一種でも第二種でも永久機関があればいいんですから。

無論、それが、「観測ミスであった」とか「別の力の変換である」というように、包含される関係で、最終的に説明されることは、ほとんど捨てがたいと思います。

ただし仮に、「この実験で入力より大きな出力が得られたら、現状の質量保存則が通用しない」あるいは「未知のエネルギーが発生している」程度のことは、簡単に言えると思いますし、それを念頭に置かない物理学者はいないと思います。

経済において、「規制がよくないのが捨て去りがたいデフォルト」というのは、そりゃそうでしょうが、「ある状況において規制が一見、多様性を育てるかのように見える」場合があるのを認めないと話は進みませんよね?
そしてまた、経済の状況で、「それが全くない」とは言い得ないと思うのです。

で、
「1.これらの調査で、規制下において、多様性が育った(ように見える)」
「2.その原因について……」
となるわけで。
最低限、多様性を、操作的に定義できないと、お話にならない。

市場調査もせず、間違った事実をチェックせず、多様性の定義も出さず、デフォルトとやらで、話を進める場合、それって、どのへんが科学なんですか?

次に。

そもそも「だいたい正しい法則」を振りかざして「間違った事実」を取り込んで「史観」を作るというのは、おおよそ科学者が犯しうる、最大の悪事と思うんですが。

ルイセンコというよりかは社会ダーウィニズムですよ?

「規制は市場によくない」→「アメコミはダメだ」と言われたら、たまったもんじゃありません。

アメコミ好きな海法は個人的に困りますが、「アメコミはダメだ」の事例を何に変えても、ひどい結果になるので、自戒すべきだと思います。

「言葉遣いは丁寧に」→「水は言葉を理解する」と言われたら、物理学者は、前半の道徳論にどんなに大切なことが含まれていても、というか、含まれているからこそ、明白に否定すると思います。

増田氏および田中氏が、意図的にあるいは無意識に上記のことをされているのであれば、まず、弁護の余地なく全力で止めて、「間違っていなくもない箇所」を拾うのは、そのずいぶん後になるべきだと思うのですが。

もちろん、稲葉さんが、私にない知識と立場を活かして、増田氏、田中氏の立場を翻訳しようとしてくださってるのはわかります。

ただ、私から見ると「経済学では、ずさんな議論が通って、トンデモ史観を主張してもいい」というのを、稲葉さんが大きく肯定されているように見えるのでショックなわけです。