終了してない(2)

 承前http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20080904/p2
 それでは「こうした社会的選択理論の使いどころはどこであり、その前提は何か」について少し考えさせてください。


 ここで社会的選択理論が考える、社会的な状態、更にはその基礎になっていると思しき、個人レベルでの厚生水準等々は、ロバート・ノージック功利主義やジョン・ロールズの思考を批判していったところの「結果状態原理」なる形容に言い当てられているように、ある種の「結果」として考えるべきものでしょう。結果的に、どの程度のGDPが実現されたのか、どの程度の識字率が実現されたのか、乳幼児死亡率はどうなったのか、どのような(税引き後)所得分配が達成されたのか、更に細かく言えば、どの産業部門でどの程度の生産実績が上がったのか、どの湖の水質基準はどのような数値に終わったのか、等々が、評価され、選択の対象とされ、そのうえで実現を目指される社会状態ということになりましょう。
 さてそこで考えてみたいのは、冷静に考えて、「政治」的な評価と選択の対象として意味がある社会的な結果とは、具体的にはどのようなものなのか、です。
 まずは第一に、最低限「現実的に実現可能ではあるはずだが、なんらかの理由で、あるいはまったくたまたま、実現されていない状態」であることが、そのような可能的な結果――有意義な選択肢であるためには必要でしょう。「実現不可能な状態」を評価と選択の対象にしても無意味です。
 社会的選択の対象となる、つまり「政治」の対象となる選択肢のすべてが、果たして本当に実現可能なのかどうか、あるいはまったく逆に、とりあえず俎上に乗せられている選択肢以外にも、実現可能なものはないのか――このような問題がまずは気になってしまいます。しかしここで「何が実現可能で、何がそうではないのか?」についての判定自体をもまじめに社会的選択の対象にしたら、無限後退を起こしてしまいそうな気がします。だとしたらどこかで決然と判断停止せざるを得ない。(もちろん形式理論としての社会的選択理論は、こうした問いをいったんカッコにくくらなければ展開できませんから、ここでは社会的選択理論にケチをつけたいわけではありません。)
 そして第二に、実現可能性の問題がクリアされたとします。そのうえで、これらの社会的な結果は、具体的にどのようにして実現されるのか、ということが気になります。たとえば所得分配について考えてみましょう。とりあえず人々に自由な市場経済の下で好き勝手にビジネスをさせ、労働市場に参加させ、その結果ある所得水準が帰結したとします。これが望ましい(社会的に選択された)所得パターンからずれていた場合、主に租税と社会保険を通した所得移転によって、税引き後所得のレベルで望ましい分配パターンを実現する、というのであれば、まあよしとしましょう。(その効果を前もって見越すことによって人々の就業行動その他が変化する可能性については捨象します。単純に「所得税率が上がるとその分働かなくなる」といった単純な関係は成立しないそうだし。)しかしながら言うまでもなく、これを指令経済的に、つまり「あんたはこういう能力があるんだからここでこの仕事をしなさい」という具合に、「現存した社会主義」でもどちらかというと例外的にしか(とはいえそれなりの規模で)なされなかった全面的就労強制で実現するのはもちろん、「好きな仕事についていいけど、賃金は社会的に望ましい分配の観点から、政府が決めるよ」というやり方で決めるのも、「社会主義の教訓」にかんがみてやはり避けたいところです。
 つまりは平たく言えば「公私の区分」をしないわけにはいかないだろう、ということです。所得分配については、税制などによって規制されるかもしれない。しかしその結果の税引き後所得をどう使うかについては、それぞれの個人の裁量に任され、それについては社会的な評価と選択の対象にはならない。あるいは、公共財やメリット財の供給、公害の処理等々については、公的な規制の対象となるが、それ以外の財・サービスの需給に関しては、基本的に自由市場に任せる。「社会主義の教訓」を踏まえるならばこんなところでしょう。
 もちろんここで「公私の区分はいかにして引かれるのか」――何が公共財・メリット財なのか、等々――という大問題が生じます。自然で自明で不動の唯一の区分などというものは存在しないので、この区分の決定それ自体は当然、まさに公共的決定、つまりは社会的選択の対象である、と考えがちざるをえませんが、そうするとまた例の無限後退の可能性が浮上してきそうです。


 やや話がこみいってきたのでこの辺にして、どこかからご指導があるのを待ちつつ、それでも大筋ではさほど致命的な穴がないと勝手に期待したうえで、項を改めて次の論点に行きたいと思います。

終了してない(3)

 ここで問題としたいのは「そもそもGDPとは社会的選択の対象となるようなものか?」ということです。そもそもGDPはいったい何の指標であるのか? が大変気になっております。
 ミクロ的な見方を徹底すれば、GDPとは結局、社会的選択の対象、評価と選択の対象となるべきものでさえないでしょう。それは単純に名目的な数字です。現実社会でならともかく、理想的な情報の流通がなされている世界を想定するならば、社会厚生関数には素直に「所得分配プロフィール」だのあるいは「寿命プロフィール」とか「識字プロフィール」を入れれば済む話でしょう。あるいは個別の財・サービスがどれくらい生産されるのか、を考えれば済む。
 ぼくが気にしている「マクロ経済固有の水準」とは、そのような結果レベルのことではありません。「潜在GDP」とか「GDPギャップ」「失業率」とかいった数字の背後に隠れているもの、つまりは潜在的な生産力水準と、その稼働割合です。もちろん厳密にいえばこれもまたGDPといった一つの数字で表されるべきではなく、最低限ベクトルで表現されるべきものなのかもしれませんが。
 この点、やはり松尾さんのコメントには意を強くするものです。

松尾匡 2008/09/04 09:10
 一般に「福祉か成長か」のトレードオフが起こるのは、均衡的(持続的)成長の上であり、それは、完全に利用されている生産資源を、投資財部門と福祉部門で取り合うからです。その意味では、福祉でなくて携帯電話でも何でも消費財なら同じだと思います(輸出して見返りに投資財を輸入するなら別)。部門間では次元が違うので生産性の高低を比較することはできないように思います。
 リフレ派の望むGDPの成長は、生産資源の余らされた状態からそれが完全に利用された状態への移行なので、もともとトレードオフにはなっておらず、「福祉か成長か」という問題の立て方自体が偽問題だったのだと思います。

 完全雇用が達成されて初めて我々は、「さしあたり現在我々の目にはいる範囲での技術的可能性を考慮すれば、その範囲で社会的選択を有意味に行える」と言えるのではないのかな、と勝手に考えておったわけですが。