終了してない(3)

 ここで問題としたいのは「そもそもGDPとは社会的選択の対象となるようなものか?」ということです。そもそもGDPはいったい何の指標であるのか? が大変気になっております。
 ミクロ的な見方を徹底すれば、GDPとは結局、社会的選択の対象、評価と選択の対象となるべきものでさえないでしょう。それは単純に名目的な数字です。現実社会でならともかく、理想的な情報の流通がなされている世界を想定するならば、社会厚生関数には素直に「所得分配プロフィール」だのあるいは「寿命プロフィール」とか「識字プロフィール」を入れれば済む話でしょう。あるいは個別の財・サービスがどれくらい生産されるのか、を考えれば済む。
 ぼくが気にしている「マクロ経済固有の水準」とは、そのような結果レベルのことではありません。「潜在GDP」とか「GDPギャップ」「失業率」とかいった数字の背後に隠れているもの、つまりは潜在的な生産力水準と、その稼働割合です。もちろん厳密にいえばこれもまたGDPといった一つの数字で表されるべきではなく、最低限ベクトルで表現されるべきものなのかもしれませんが。
 この点、やはり松尾さんのコメントには意を強くするものです。

松尾匡 2008/09/04 09:10
 一般に「福祉か成長か」のトレードオフが起こるのは、均衡的(持続的)成長の上であり、それは、完全に利用されている生産資源を、投資財部門と福祉部門で取り合うからです。その意味では、福祉でなくて携帯電話でも何でも消費財なら同じだと思います(輸出して見返りに投資財を輸入するなら別)。部門間では次元が違うので生産性の高低を比較することはできないように思います。
 リフレ派の望むGDPの成長は、生産資源の余らされた状態からそれが完全に利用された状態への移行なので、もともとトレードオフにはなっておらず、「福祉か成長か」という問題の立て方自体が偽問題だったのだと思います。

 完全雇用が達成されて初めて我々は、「さしあたり現在我々の目にはいる範囲での技術的可能性を考慮すれば、その範囲で社会的選択を有意味に行える」と言えるのではないのかな、と勝手に考えておったわけですが。