『水星の魔女』雑感

 もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは本来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。本来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内クィアからの反応がいまひとつだったとすれば、それはながらくガンダム、そしてロボットアニメというジャンル、フォーマットに付き合ってきた日本人の経験が反映していたのだろう。
 思い返せばファーストガンダムというのは、その点からもなかなか面白い作品だった。もちろんそこではエースもトップも男性であり、女性はあくまでもサブ的な地位に押し込められる家父長制的構造が貫徹しているのだが、それをずらしたりおちょくったり解体するような運動も随所に仕掛けられている。とりわけ重要なことは、主人公に明確なパートナーが配されない、ということだ。恋愛の主題は提示されはするが、悲恋に終わる。この点では『水星の魔女』を含め、以降の作品の多くはむしろ後退しているとさえいえるだろう。
 もうひとつ、それまでのロボットアニメの系譜から見たとき、ファーストガンダムでは父と子という主題が意識的に打ち捨てられていることも重要だ。『マジンガーZ』以来、父の遺産、あるいは家産としてのロボットの主人公による継承、という意匠は多々用いられてきたわけであり、ファーストガンダムにおいてもそれは踏襲されてはいるのだが、そこでは父は早々に退場するし、ガンダム本体以外にはその遺志や遺産というものも残らない。主人公の親からの自立という主題は、親をあっさりと捨てるという形でなされる、あるいは上司や敵の方にこそ正面から立ち向かい克服すべき父性というものが体現されている。
 ファーストガンダム以降、ガンダムその他のリアルロボットアニメにおいては、もちろん揺り戻しもありつつも、こうした主題系が知ってか知らずか継承されており、『水星の魔女』もその例に漏れない。おそらくこれは非常に意識的になされていると思われるが、そこでは家父長制批判が「ただ家父長を断罪すればよいというわけではない」という認識とともになされている。実際問題として、ただ家父長を子が打倒するだけなら、その子が新しい家(父)長におさまり、また同じことを繰り返すだけである。『水星の魔女』の主人公たちは(もちろん「自分たちは次世代を作らない」という形をとらずに?)、そこを何としても避けようとしている。

 暫定的な結論として言えば、『水星の魔女』はクィアアニメでもなければフェミニズムアニメでもない、さりとてそれらに敵対的というわけでもない。ただ家父長制批判としては非常にデリケートだがいい線いってるのではないかと思う。

 

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哲学の位置について私見

「人の生きづらさについて社会学はそれを生み出す社会体制・環境のメカニズムを明らかにし、その変革を通じて何とかしようとするし、心理学は個人の心身にはたらきかけて何とかしようとするけど哲学はどうなのか?」と問われて「臨床哲学とか応用倫理学だとあまり変わらないけど、本来の意味での哲学ならどうかというと、実は社会学も心理学も暗黙の裡に、社会体制・環境にせよ個人の心身にせよ変わりうるもの、変えることができるものと考えていて、そこに介入して変えることもできるしまた変えないこともできると考えている。というよりその前提を外すと成り立たない。しかし哲学の場合「変えようがない・どうしようもない・どうにもならない」という可能性にまで広げて考えることができる。実証科学とそれを前提とした技術論・政策論にはそれは禁じられている。」と答えてみた。
哲学だと決定論や運命論も考えてよいけど、科学では実はだめだ(実験もできなくなる)、という風に理解していただいてもよいかと。
ではそういう哲学が世の中的に実証科学と違う受け止められ方をするかというと、実のところ応用倫理学では実証科学と変わらずに実践的指針を出しちゃうし、仮に決定論や運命論の立場から何か言っても、それもまたある種「セラピー」として受容されてしまって、普通の臨床哲学とか自己啓発と結果的には変わらないのだと思う。
ではそこに違いがないかと言えば決してそんなことはないのだが、世俗的にはないも同然なのではないか。

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