病み上がりなので講義は舌足らずになった。これで補ってくれ。
*マルクス主義の不健全さ(承前)
結論から言ってしまえば、資本家と労働者の階級対立、前者による後者の支配と搾取という問題であるが、正統派のマルクス経済学において、この搾取関係が自由で対等な契約によって成り立つことの指摘は正しくかつ有意義だったとしても、それは必ずしも19世紀の資本主義の現実の適切なモデル化とはいえない、ということだ。マルクス主義の理論モデルでは「私有財産権の確立と契約の自由、取引の自由という法制的条件の下で、自由で対等な労働取引の結果、搾取がなされる」というストーリーが展開されるがこの時代の雇用関係は法的に見ても決して対等とはいえない。端的に言えば、雇う側の契約違反はせいぜい民事的な制裁を受けるのが関の山であるのに対して、雇われる側の契約違反は刑事訴追の対象となる、ということだ。
厳密に言えば「民事と刑事の分離」にうかつに論及すること自体が危険なのであるが、たとえば「債務者監獄」などという古い言葉を思い出してみればよい。現在においては、借金が返せないなどの民事的な債務不履行によっては、人は身体を拘束されることはない。たとえ借金が返せなくなっても、拘束されて返せるまで無理に働かされることはないし、雇い主の意思に反して、一方的に仕事を放棄したところで、やはり拘束されて業務命令をやり遂げるまで無理やりに働かされることはない。奴隷制度が廃止されるのと前後しつつ、債務不履行における強制履行においても、強制労働による弁済は認められなくなっていく。そして雇用労働の領域においても、雇い主は雇い人を暴力的に懲戒したり、実力をもって強制的に働かせたりすることはできず、なしうる最高の制裁はただ解雇のみ、となっていく。
しかしこうした非対称関係の解消は、奴隷制度が廃止された時代、つまりは19世紀半ばのことであって、いわゆる市民革命や産業革命以降の出来事なのである。こうした個別的な民事的取引関係、そして雇用関係だけではなく、集団的な労使関係においても、労働者側の団結と使用者側の団結に対する規制は、決して対称的ではないことが普通だった。
であるから、初期の労働経済学におけるような歴史理解、つまり「市民革命後自由主義経済思想が支配的となり、伝統的なギルド的規制が禁止されることによって労働組合も禁止されてしまったが、19世紀後半に自由主義への見直しが始まり、労働組合も合法化されていった」という類の議論はミスリーディングである。契約違反が刑事罰や身体的拘束をもって規制される労働市場は「自由」とはいえない。労働組合は単純に「自由な労働市場」を否定したわけではない。むしろ労使対等は、実力面においてのみならず形式面においても、19世紀後半に労働組合の地位向上とともにようやく実現を見ていく。
ここまでややこしい話をしなくとも、そもそも普通選挙権の定着自体が19世紀末なのであり、実質的にどころか形式的にさえ、階級間の格差は解消されていなかった。「形式的には対等だが実質的には不平等」な時代として19世紀を描くのは誤りである。そして20世紀を「組織の力の伸長による、自由と形式的平等からの逸脱、自由の制約を引き換えにした実質的平等化の時代」と描くのも誤りである。
たとえばこの時代は、もう少し正確には、市民革命の普遍的人権の理念がようやく制度的に定着した時代に、その制度化によって人権の理念を空気のごとく自明視できるようになった人々が、制度的「形式」が必ずしも十分な「内実」を伴っていないことを批判して、その批判の際に普遍的人権の理念を高唱するときに、あやまって市民革命期にその理念が十全に実現していたかのように語ってしまう、そんな時代なのであろう。もちろん制度的な定着がかえって理念のラディカリティを減ずることへの不安も、そこにはあったのだろうが。
「市民革命と産業革命を経ての近代的資本主義の確立によって、前時代的な経済外的強制に基かない、純然たる市場メカニズムによる階級支配が完成した」というストーリーをかつてマルクス主義者は提示した。このストーリーからすると後期資本主義、帝国主義時代は一方では剥き出しの政治の再浮上、社会の再封建化、市民革命以前への回帰となる反面、他方では無政府的市場メカニズムへの国家権力の介入、社会の意図的な組織化の進行=社会主義への移行の準備としても位置づけられる。しかし20世紀後半になって「現存する(した)社会主義」の実態が明らかとなり、理論的にも社会主義経済メカニズムの問題点が明らかになってくるにつれ、後期資本主義論における後者の契機――「社会主義への準備としての組織資本主義」という発想――はリアリティを喪失する。となると後期資本主義は基本的に「反動」、「近代の堕落」として捉えられざるを得ない。そうするとこの点においてマルクス主義者たちは、いわゆる新自由主義と判断の一致を見てしまうことになる。すなわち、20世紀を悪とし、19世紀への回帰を、たとえ相対的にではあれよしとする議論を否定できなくなる。
このような罠に足をとられないためには、19世紀像を再検討する必要がある。ひとつの可能性は、上述のごとく、19世紀においては決して自由主義の普遍的な実現などは起きていなかったことに着目することである。たとえば「労働運動と国家の労働政策は、経済的自由主義を否定して社会を組織化する、つまりベクトルとしては社会主義と同方向を向いていた」と考えるのではなく、「労働運動と国家の労働政策は、労働者をも自由主義の主体としてブルジョワ社会に統合することを目指して(も)いた」と考えるのである。ただしその場合、リベラリズムにつきものであったある種の自然主義、自由主義を伝統その他の社会的制約からの解放とみなす立場から離れる必要がある。すなわち、リベラリズムを没政治、反政治としてではなく、特定の政策理念、制度構想と考えるのである。
すなわち、資本主義市場経済とは、マルクス主義が想定するごとく生産力の自然な発展がもたらしたものであるというより、政治権力や法的制度、あるいはまた生活文化による支えによって初めて実現しうるものである。19世紀における古典的な自由主義に導かれた貿易の自由化や「小さな政府」も、政治の後退や政策の否定ではなく、それ自体が具体的な特定の政策体系であり、政治理念であった。それゆえ20世紀の後期資本主義におけるいわゆる「帝国主義」や「福祉国家(国家独占資本主義)」にせよ、仮に資本主義の「変質」ではあったとしても「堕落」や「後退」ではない。「経済への政治の介入の否定としての自由主義」から「経済への政治の介入としての帝国主義・国家独占資本主義」へのシフトというよりは、「自由主義的な介入」から「帝国主義・国家独占資本主義的な介入」へのシフトといった方がまだましである。政策的な介入が必ずしも資本主義市場経済の否定や制限を意味するとは限らない。
こうしたアプローチの例としては、マルクス経済学の伝統を受け継ぎつつ、その発展段階論とルヨ・ブレンターノやウェッブ夫妻の労働組合論・社会政策論を組み合わせた戦後日本の労働経済学、また近代史学における「19世紀行政革命論」もあげることができる。そしてミシェル・フーコーのいわゆる「権力分析」もまた、そのように読むことができるのである。
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