昨日のに少し補足する。ぼくが言いたいことは以下のとおりだ。小泉義之の言う意味での「変身」がない限り、あるいは人間を受け継ぐ別の「怪物」が出現しない限り、コミュニズムは無理だ。身体―機械としての人間の基本的なスペックを根本的に変えるか、あるいはそのおかれた環境の方がやはり根本的に変わらない限り、コミュニズムが支配的な仕組みになるような社会は実現しえないだろう。
 なお「別館の別館」の方に石塚良次さんがコメントしてくださったのでついでに言うと、大川『マルクス』と大庭健『所有という神話 市場経済倫理学』(岩波書店)が共有しているダメさを列挙してみる。
 まず第一に新古典派経済学、特に「法と経済学」の所有論をまったく勉強していないこと、第二に、これと関連するが民法学の議論をやはりまともに勉強した形跡がないこと。
 第三に、ある意味理論的な不勉強以上に問題なのは、現実の「所有」なるものの複雑怪奇な実相をまともに考慮に入れていないこと。たとえば農業史や開発経済学をちょっと勉強すれば、世界各地の様々な農地制度、土地所有制度の多様さ複雑さに眩暈がしてきて、少なくとも「私的所有/共有/公有」程度の雑駁な図式では何もわからないことくらいはわかるはずだ。
 第四に、所有と市場の関係についてまともに考えた形跡がないこと。たとえば「所有なき市場」は不可能、とは言わないまでも非常に不自然な代物でしかありえないが、「市場なき所有」は十分に自然である。私的所有と市場とは互いに密接な関係にあるが、イコールではない。
 そして第五に、市場のみならず所有もまた、それ自体が人と人、そして人とものとを結びつける仕組みに他ならないということがよくわかっていないこと。所有と市場は「人々が囲む食卓のように、人々を互いに引き離し、かつ互いに結び付ける」アレントの意味で「公」的な仕組みなのである。