『社会学入門・中級編』の予告を兼ねて(続)

shinichiroinaba.hatenablog.com

 

の続き。

 

 『「新自由主義」の妖怪』では20世紀マルクス主義社会科学の総括を段階論と「段階論の横倒しと脱構築」としての従属論・世界システム論としてまとめたうえで、前期資本主義=自由主義から後期資本主義=独占資本主義・帝国主義という図式のうさんくささを訴え、資本主義の発展段階論を言うならむしろ「固定相場制から変動相場制へ」、つまりは貨幣制度・政策の転換を焦点とすべきだ、と論じた。
 つまりこれは経済のディマンドサイド、マネタリーな面を重視して、サプライサイド、実体的な面を軽視する考え方だといえる。大企業の成長と市場の寡占化は、どちらかというと過渡的あるいは循環的な現象で、段階を画するようなものではない、という考え方だ。これはかなり乱暴な考え方であり、かつそれまでのマルクス経済学はともかく、その段階論の発想を受けて発展してきた近代史学の蓄積の継承を難しくする。そのあたりの問題はしかし、『「新自由主義」の妖怪』では十分に触れることはできなかった。
 では、これまでマルクス主義の遺産はどのように受容されてきたのだろうか? 戦後の日本の歴史的社会科学を念頭において、少し整理してみよう。

 もともと日本の経済史学は、マルクス主義的な発展段階論と同時に、マックス・ウェーバーの比較宗教社会学をもその基盤において発展してきた。更に、一方で従属論・世界システム論の本格的な普及が始まり、他方で「社会史ブーム」を経由した80年代あたりから、社会経済史学を中心に、古いマルクス主義的な段階論の見直しが着々と進みつつあった、とは言える。1984年の柴田三千雄『近代世界と民衆運動』はそのベンチマークと言えよう。1990年代以降なぜか西川長夫によって人口に膾炙した「国民国家論」の原点はここにある。
 古典的なマルクス主義の発展段階論では、中世末期から近世にかけて封建制から資本制への移行が起こるが、資本制の初期段階はアダム・スミスにならって「重商主義」と呼ばれる。そこでは支配的な資本は商業資本、商人たちのビジネスであり、製造業者たちはまだ自ら資本家と言えるほどの規模を持たず、流通や金融を支配する商人たちに従属している。資本蓄積の主体は商人たちである、とされる。のみならずこの時代の市場経済は、生活必需品よりも贅沢品、奢侈品を主体としており、普通の人々の生存維持経済はローカルな共同体を基盤としていて、遠隔地交易にはあまり依存していなかった。それゆえ商人たちの主たる顧客は貴族層であり、市場の中心は遠隔地交易の方にあった。そして商人たちは政治的支配者たる貴族層と癒着し、政治権力と不可分の形でビジネスを展開した。貿易は同時に国際紛争と不可分であり、海外市場の開拓は植民地の獲得と争奪戦に直結した。
 やがて農業革命――農業生産力の上昇と農業の資本主義的ビジネス化、更に産業革命を経て、商人ではなく生産者たち、農民や製造業者たちが資本蓄積の主体となり、市場でのビジネスの主役となると、資本主義は「自由主義」段階に移行する、というのがマルクス主義者たちの理解であった。成長の原動力は政治権力を利用した市場確保より、活発な技術革新、それを促す自由な市場にあり、経済政策の基調も統制、介入の抑制の方に移行する。しかしながら製造業の発展が企業の大規模化を促すと、少数の企業が市場を支配し、競争を抑制し、政治も利用する――あるいは逆にそうした独占企業をコントロールするために、資本家の対抗勢力の方が政治に訴える――「帝国主義」の時代に移行していく。
 ――以上のような図式に対して80年代以降の展開は、ひとつにはのちの「グローバル・ヒストリー」につながる「世界システム」という視角、いまひとつには社会史、民衆史という視点の導入によって大きく影響されている。まず近代資本主義経済が、最初から国家の枠を超える多極的な世界システムであったことが強調される。「重商主義」は、初期の資本主義における競争の主役が民間企業よりは、ようやくその時代に確立しつつあった(都市国家でも帝国でもない)領域国家の方であった時代の国家経営戦略として理解される。ただそのように最初からグローバルであった資本主義経済も、のみならずそれに比べればまだローカルな存在であった国家も、まだ普通の庶民の日常生活にまで浸透するものではなかった。庶民の生活はより局所的な共同体にとどまっていた。すなわち、この段階の国家はいまだひとつの「社会」をなしていたとは言えないのである。ようやく常備軍とそれを支える財政システムを備えた統治権力を確立しつつあった当時の国家においても、教会、貴族、都市、村落それぞれのレベルで異なる法が支配し、異なる法に服属する人々は互いに異なる身分を構成していた。こうした身分制社会を踏まえた国家を柴田は「社団国家」と呼ぶ。
 それに対して、戦争を主因とする財政危機が統治構造そのものの危機となったフランス革命以降の大混乱を経て、19世紀、古典的なマルクス主義風に言うと「自由主義」段階の西欧に確立した国家体制を柴田は「名望家国家」と呼ぶ。市民革命と産業革命を経て、古い支配階級としての貴族は没落の過程に入りつつあり、他方新興有力者層としてのブルジョワジー、商工業を基盤とする有産者市民の勢いは増しつつあったが、いまだひとつの均質な「市民社会」が確立したとはいいがたい状況である。市民革命によって法の下での平等は進展したが、それでも選挙権や労働の権利において、今なお身分的な不平等は存続していた。(選挙権は納税額などに応じて不平等に配分されており、雇い主と雇人との法的関係も対等ではなかった。雇い主が雇人を自由に解雇できる一方で、雇人は無断で辞めると訴追されることもあった。「ストライキが独占にあたるかどうか」以前の問題である。)従来の身分秩序が流動化する中で、なお旧貴族や新興ブルジョワの中の一部のエリートが、デファクトな特権階級として政治社会のリーダーシップをとるがゆえに、この時代の国家を柴田は「名望家国家」と呼んだのである。
 そして柴田によれば、西欧の近代国家が「国民国家」と呼びうる内実を備えるようになったのは、古いマルクス主義の言葉を用いれば、ようやく「帝国主義」段階に入ってからだ、ということになる。実際この時代には、普通選挙への移行が既定路線となったのみならず、労使の権利のうえでの対等も実現し、国政レベルでの労働者の政治参加も進んでくる。それ以上に重要なのは、義務教育の普及による識字率の向上、それを踏まえた大衆的ジャーナリズム(文学や娯楽も含む)の形成、経済成長の結果としての生活水準の向上、大衆消費社会の成立、等々によって、不平等ではありながらも、ある程度均質なひとつの「市民社会」を構成する「国民」へと人々が統合されていったのである。政治の方でこれを象徴するのは、それぞれを大いにタイプは異なるが、ナポレオン三世ビスマルク、ロイド=ジョージといった、強力なリーダーシップを備えた大衆政治家である(選挙によってえらばれたわけではないビスマルクは「大衆政治家」とはいいがたいかもしれないが)。
 庶民、民衆が国家の動向を左右しうる主役になりえたのは、ようやくこの「国民国家」の時代においてである。それまでは民衆は身分制の枠に閉じ込められ、国家レベルの政治に参加する権利をそもそも持たなかった。資本主義経済への巻き込まれ度合いも、産業革命以前はまだ大きなものではなかった。ようやく「国民国家」の時代になって初めて、権利上の平等のみならず、労働者としてまた消費者として、その生活全体を市場の中にからめとられた経済の主役としての地位を獲得したのである。
 この柴田の近代世界史論が、どのような意味において伝統的なマルクス主義史学・社会科学の継承でありかつ批判であるのか? まず「世界システム」という枠組みの採用が何を意味するか、である。それは要するに、国家――近代国家の相対化である。
 それまでは国家は、ある時は独立した対象として、またある時はほとんど透明な背景として、いずれにしても自明視されてきた。つまり一つのまとまった社会の単位として国家が想定され、社会の分析は国家を単位として、国家レベルで、具体的には国境内という地理的範囲で、国民という集団を社会の構成要素として行われるのが常であった。そしてひとつの国家単位での分析が、あまり反省を経ることなく、ヨーロッパ全体、更に20世紀以降ともなれば世界全体へ、同じ国家という枠組みを共有しているからという理由で一般化され、また深刻な差異が意識されて比較される際にも、あくまでこの国家という単位において比較作業がなされた。「世界システム」という概念の導入は、近代国家という単位が基本的にはより大きな単位としての世界システムの下位システム、構成要素としての性格を持ち、世界システムの形成とともに初めてその形を成してきたものであること、それゆえにあたかも世界システムから独立に存立する、不動で不変な単位であるかのように見てはならないということを意味する。しかしそれだけではない。複数存在する国家は互いに必ずしも同質ではなく、「中心―半周辺―周辺」といった世界システム内でのその位置に応じて、質的に異なった存在である、というところまで、「世界システム」概念は含意する。
 そのように自明なものではなく、歴史の中で形成され変容していく国家のありようを、更に細かく分節していく際に柴田が着目するのは、国家単位での社会統合のあり方の変化である。「社団国家」とはあえて言えば社会がひとつに統合されていない、複数の身分的社団が併存する複層的社会の上に立つ国家であり、「国民国家」は、それこそ統治の作用によってどうにかこうにか一つの社会が創出され、その上に立つ国家である。「名望家国家」はいわばその過渡期の不安定な存在として描き出されている。このような描像は、今となってはほとんど自明に思われてしまうが、よく考えてみればそれは伝統的マルクス主義の社会論、国家論に対する重大な修正である。
 マルクス主義歴史観は乱暴に言えばやはり階級闘争史観であり、それが戦後日本歴史学においては人民闘争史観となる。それぞれの時代において政治対立の基本を形作り、社会変革への原動力となるのは、支配階級と被支配階級たる民衆との対立、闘争であるというのが、その基本的な発想だ。伝統的なマルクス主義史学・社会科学においては、その闘争の単位が卒然と国家として自明視されていた、というだけではない。支配層と民衆との対決がまさに社会の構造を基本的に決定するものとされていたのがポイントである(むろん実際には始祖マルクスエンゲルスにせよ、後進の中の歴史感覚を備えた論者にせよ、もっとデリケートな議論もしていたが、大枠としては)。人民は常に歴史の主役として描かれてきた。それに対して柴田の議論は、フランスのアナール学派やドイツの構造史・概念史を踏まえ、民俗学・歴史人類学・社会史の成果に基づいて、民衆の歴史を、「世界システム」や「近代国家」のレベルとは別の、相対的に独立した時空としてとらえる。民衆運動も、必ずしもつねに公共的な意味を持った政治闘争、社会運動としての意味を持ったわけではない、と相対化される。世界システムレベル、国家レベルでの変動と、普通の庶民、民衆の生活世界の変動とが正しくシンクロしていく(そして民衆運動が公的な政治としての「階級闘争」として確立する)ようになるのが、それこそ19世紀以降の革命の連鎖であり、それが自明視されるようになるのが「国民国家」の時代だと。

 さて、それではこのようなマルクス主義史学・社会科学の見直しが、とりわけ日本の80年代以降の社会学にとって、どのような意味を持ったのか? 
 ひとつ興味深いのは、このような動向は西欧においては社会学をも巻き込んだものであり、60年代のバリントン・ムーアを先蹤とし、70年代以降シーダ・スコッチポル、チャールズ・ティリーなどによって「マクロ歴史社会学」とでも呼ぶべき潮流が盛んになったのに対して、日本においてはその受容は主として社会経済史学、政治学畑の研究者によってなされ、社会学プロパーにおいてはそれほど盛り上がらなかったという印象がある。
 むしろ日本の社会学においては、こうした転換はむしろ社会史、民衆史の受容を中心に継承されたのではないか、と思われる。むろん歴史学にも押し寄せた「言語論的転回」も無縁ではない。かつて自然で自明な存在とみなされていた「国民」ないし「民族」、nationが、歴史的に形成されてきたものであること、nationという存在は、"nation"という言葉である人々をくくり出し名指すという認識的、言語的営みと無縁にあるのではなく、そうした認知や名づけによってはじめて存在するようになる――構築されていく、という理解が浸透していく。
 言い換えると、上に見た柴田の仕事などにおいて、国民という実体が国民国家というより大きなシステムの構成要素、その作動の効果として産出されるし、更にその国民国家もまた、より大きな世界システムのサブシステムである、という認識が確立されていくのと並行して、学問から日常的常識までをも含めた知の総体もまた、大きなシステムとしてそれに随伴している――というより一体不可分である、という認識が確立していく。つまりはミシェル・フーコーの権力分析の受容である。このようにして「国民」はもちろん、「子ども」と「大人」の区別であるとか、「家族」とか、「労働」と「余暇」の区別とか、日常生活を形成する自明のカテゴリーと思われていたものの歴史性が分析されると同時に、そうしたカテゴリー構築自体が、ニュートラルな認識や名づけではなく、人々の間の社会的関係をも構築していき、ときに非対称にもはたらく権力作用であるとされる。――かくしてフーコーの『監獄の誕生』、あるいはフィリップ・アリエスの『子どもの誕生』を手本として、特殊近代的なカテゴリーとしての「××の誕生」(実態レベルでも認識レベルでも)という研究プログラムが日本でも大きな存在感を発揮するようになる。「構築主義」あるいは「言語論的転回」というスローガンのもと、多領域で見られた展開である。
 ただし、このような展開の継承の仕方それ自体もまた多様であらざるを得ない。ひとつの継承の仕方は、このような展開(転回)を大枠でのマルクス主義的図式の洗練と豊富化、つまりはマルクス主義的な発展段階論・社会構成体論の中に、精神史・文化社会史・日常的カテゴリーの歴史分析を組み込む、すなわち、近代国民国家システムの、更には資本主義世界システムの部品としての「子ども」や「女性」について論じていくようにする、という方向である。これはたとえばマルクス主義フェミニズムにおける「労働力の女性化」論であるとか、あるいは20世紀末日本の近現代史学においては、山之内靖が唱導した「総力戦体制」論や、先述の西川が唱導した「国民国家」論、「××の国民化」論といった形で具体化されていた。
 しかしながら上のような「ミクロ権力作用を組み込んだマクロ体制論」という形での継承がすべてだったわけではない。「構築主義」の原点たる社会学の社会問題研究においては、これは日本に限らず発祥の地アメリカにおいても、どちらかというと性急な「ミクロ―マクロ連関」の探究には禁欲的だったと思われる。フーコー自身もこの点については同様であり、「ミクロ―マクロ連関」の探究はむしろフーコーを批判的に継承しようする(意地悪く言えば馴致しようとする)ネオマルクス主義的論者の方に目立っていたというべきかもしれない。
 「子ども」や「女性」といった概念の意味、あるいはそうした言葉で名指された実体の機能は、それらを部分として含むより大きな全体――意味秩序としても実体としての社会としても――の部分としてみたとき初めて理解できる、というのは、もちろん、全体としての社会とその意味秩序が、例えば「資本主義世界システム」とか「国民国家」という形であらかじめどんなものか先取り的に大雑把に理解されているという前提の下で初めて意味を持つ。それは言うまでもなく、あまりにも強い前提である。そのような前提の下で行われる研究に意味がないとは言えないが、むろん相応の射程しか持ちえない。そして実際には、このような「ミクロ」レベルに照準する歴史家や社会学者のすべてが、このような「ミクロ権力作用を組み込んだマクロ体制論」への寄与として自分の仕事を行っていたわけではなかった。
 くり返しになるが、こうした大枠のマクロ理論に全く意味がないというわけではもちろんない。そうした大枠が共有されていれば、個別研究の間の連関付けが、とりあえずは容易になる。「この研究にどのような意味があるのか?」という問いへの答えが、研究者当事者にとってもその読者にとっても容易となる。

 しかしながらミクロ権力分析、より正確には知―権力分析の本来のポテンシャルは、国家中心の政治観、権力感を揺るがしたフーコーの仕事がまさにそうだったように、本当はそのようなものではないこともまたたしかである。「ミクロ的な意味作用はマクロ的な文脈の中でしか決まらない」というときに「ひとつの単語(あるいはある文章の一部分)の意味はひとつの文全体(あるいは等の文章全体)の意味がわかっていることを前提として「問題の文(あるいは文章)の意味に対してその語(あるいはその一部分)がどのような貢献をしている=帰納を果たしているのか」という形で決まる」という理屈が、ここでいう「ミクロ―マクロ連関」、あるいは「全体論」の理屈だが、実はここであらかじめわかっている、先取りされている「全体」の意味にも、いくつかの種類がある。特定の主題を持った一連の文章(文芸作品だの学術書だの技術的マニュアルだの)の場合にはまさにその特定の主題だが、極端な話、ある社会における言語活動の総体、そこにおいて話され、書かれている言語表現の総体がこの「全体」だとしたら、その「意味」はいったい何だろうか? それは極端に言えば「現状」そのものであり、その言葉が通用している人々の社会だとか、それを取り巻く環境、物理的世界だとかがとりあえず存在しており、現状の言葉遣いがそうした社会や世界のありようと著しくずれてはいない――「だいだいあってる」という以上のものではないだろう。要するにそれは「宇宙の中に存在するあらゆるもの、宇宙の中で起きるすべての出来事は、物理法則に反してはいないはずだ」とか、「いま現に地球上に生きているすべての生き物は、ある程度現在の環境に適応しているはずだ」という程度の、いやそれ以上にゆるい意味しかない。そのようなはなはだ漠然とした「全体」の「意味」に対して、個別的な言語表現、ひとつの単語だのひとつの文章だのの果たす機能を問うことに、どんな意味があるというのか? 
 「国民国家」や「資本主義世界システム」に対して「女性」や「子ども」あるいは「家庭」や「刑務所」(実体であれ概念であれ)が持つ意味、果たしている機能について問うことは、それなりに意味を成すという感じがするが、人類世界全体に対しての機能だとか、言語活動全体の中でのその意味とか言っても、いかなる「意味」があるのかわからない。むしろここでは問いの方向はほとんど逆転するはずだ。すなわち、「国民国家」や「世界システム」といった普通の意味でのマクロ的かつ抽象的な対象の機能や意味は、漠然とした全体世界という、マクロを通り越した「地平」と、よりミクロ的で具体的、日常生活に根差した「仕事」や「家庭」といったものごととの中間に位置づけられて、両者との関係においてその理解が図られるようになる。
 そもそも「ミクロ―マクロ連関」はきれいなレイヤーを描いているわけではない。いや、「世界システム」と「国民国家」との関係にしてからが実はそうなのだが、「女性」「子ども」あるいは「資本」「都市」などについて考えてみたとき、それらが部分として属するより上位のシステムがたったひとつ、ということがあるはずがない。人がある国家の一市民、一員であるときに、その人が同時に資本主義世界システムの一員でもあるのは、ただ国家という中間システムを介して間接的にのみである、などという議論は、今日のグローバル資本主義の状況下でも、また逆に国民国家の確立前においても、成り立つはずはない。
 注意すべきは、社会学の歴史において「方法論的全体主義」が言挙げされたときに問題になったのは、単なる原子論の否定ではなく、原子という単位を固定すること、つまりは全体と部分との区別を自明なものとみなすことへの警戒でさえあったはずである。それは新古典派経済学流の個人主義アプローチに対してのみならず、マルクス主義的な階級還元論への批判でもあった。

 そのように考えれば「マクロを棚上げにするミクロ分析」「マクロを実体としてではなく地平として措定するミクロ分析」が、マルクス主義の単なる見直しを超えて、真の意味でポスト・マルクス主義的な社会学のストラテジーとして一定の地歩を占めることは、十分に理由があったことになる。しかしながらそこで支払われたコストもまた、少なくはなかったと言えよう。すなわち、その場合多種多様な主題、対象をめぐってなされるミクロ分析同士の連関付けは、そして社会学の学問共同体全体の連帯感の確保は、社会学的公共性の確立は、何を手掛かりとしてなされるか、である。マルクス主義の場合には、またその対抗理論としての、パーソンズ的社会システム理論の場合には、マクロレベルの社会システム――国家であれ世界システムであれ――という対象の共有が、少なくともそういうマクロ的対象とそれぞれの研究主題との連関付けが、そのような機能を果たしていた。そうしたマクロレベルの自明性を解体した後のミクロ分析の間では、そうした学問的公共性の確保を何をもってなせばよいのだろうか? 現状ではそれはおそらくは「方法」である。拙著『社会学入門・中級編』の主題はそことかかわっているはずだ。

 

 

近代世界と民衆運動 (世界歴史叢書)

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