広江礼威『Black Lagoon(9)』(小学館)
- 作者: 広江礼威
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2009/10/19
- メディア: コミック
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以下に8巻が出たときの、いまはなき『Invitation』に寄稿したまんが評を再録する。
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国際マフィアが割拠する現代の「リバタリア」(伝説の海賊自治国)たる架空都市ロアナプラを根城に、海賊まがいの運び屋の一員となった日本人元商社マンの主人公「ロック」の冒険を描いて、血と硝煙と美少女の好きなオタクの絶大な支持を得ている本作も、いよいよ佳境である。
闇社会に自ら選んで身を投じながら、小市民的常識と正義感を捨てきれないロックは、これまでにも敵味方の悪党たちから「偽善者」との誹りを浴びてきた。そして実際彼の「偽善」は、これまで一度たりとも実を結んでいない。
しかしロックの偽善を撃つ悪党たちは、敵も味方も奇妙にやさしい。彼らは権力者や革命家の偽善(で糊塗した巨悪)を軽蔑し、自らの悪を隠さぬ「誠実さ」をもって矜持となす「いい奴」ばかりで、忌むべき偽善者ロックを見捨てず、殺さず、忠告までしてくれる。
しかし「偽善よりも誠実な悪を」という選択も実は陳腐だ。一皮むけば闇社会も、最後にはカネがものを言う世知辛さでは表と変わるものではない。悪党どもの誠実さも所詮は「商売は信用第一」とその本質において変わるところはないのだ。無法者も実は誇りある自由人などではない。日本企業社会を見限ったロックはそれに我慢がならず、「ロビンフッドがいないなら、ロビンフッドになればいい!」と啖呵を切る。
そして4、5巻の「日本篇」でロックは、「誠実な悪」に抗して自らの偽善を押し通す、ひとつの方法論を手に入れた。それは自らの善意を「正義」にではなく個人的な「趣味」に基づけることだった。そして6巻以来進行中の「ロベルタ逆襲篇」でも、彼はあくまで「趣味」を貫こうとする。
しかし弱肉強食の闇社会で自分の「趣味」を押し通すには、(むき出しの暴力のみならず、知略でもよいとはいえ)圧倒的な力を見せるしかない。力の裏付けなしには、弱き者を守るというロビンフッドの「趣味」は成り立たない。しかし仮に押し通せたとしても所詮「趣味」であるならば、それは「偽善」を超え「独善」という(国家や革命家たちと同様の)悪に転じてしまわないか?
こう読むとまさにロックは、豊かな先進国でメディアの向こう側の悲惨に「苦悩」する我々の、極めてよくできた鏡像である。
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まあ見る人が見れば紙屋高雪の影響がまるわかりだろうが。
ところで興味深いことに、故意か偶然かはわからないが、本巻にはまるっきりこの紙屋の評への応答としか思えないフレーズが登場する。紙屋は「この世界観は、ある種のピュアさの裏返しだ。」と正しく喝破しているが、本巻においてゲストキャラ、小さい方のメイドのファビオラは、レギュラーにしてヒロインの拳銃使いレヴィに対してこう叩きつける。
「世の中にお花畑があると思ってるのは私じゃない、本当は――あんたの方だろ?」(147頁)
そして終幕、今回初めて実を結んだロックの「偽善」に対しても、ファビオラとその主「若様」は厳しい拒絶を突きつける。