稲葉振一郎『社会学入門』(NHKブックス)あとがきに書き忘れた・書けなかったこと

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

社会学入門 〈多元化する時代〉をどう捉えるか (NHKブックス)

 何でこんな本を書こうと思ったのか、書いているうちに忘れてしまっていたのだが、最近思い出した。


 まず一つ。
 この本を書いたのは、何も1年生向け講義を受け持つ羽目になったからではない。むしろ逆だ。
 うちの職場では、1年生向け社会学入門講義の担当自体は別に純然たる強制ではなく、いやだったら代わりに1年生向けの基礎演習をやれば済む話であり、ずっとそうしてきた。ただ、社会学科で専任として給料をもらっている人間が、社会学入門の講義を「やりたくない」ならともかく「できない」などというのは通るまい、とは思っていた。
 そんな風に思っていたから、カリキュラム改革の際に改めて「1年生講義を担当できる方・する用意のある方おられますか」というアンケートがとられたときに、素直に「やれというならやりますよ」と書いたら、バカを見た――わけではないのだが、ぼくと違って社会学の大学院を出たお歴々が「できません」「やりたくありません」とこれまた素直に書いておられたというのを知ったときには素直に切れましたよわたしゃ。
 そういうことで長年1年生講義を受け持ってきたが「たまには休んで別のことしたい」といった先生方に代わって2007年の1年生向け社会学入門講義を担当した二人は、どちらも社会学者ではない(社会学専攻出身ではなく、社会学会員でもない)という大変にすばらしい結果になりました。まる。
 だからそういう羽目になったときに、「そういうことだったら自分用の教科書書いて小銭かせいだる」と思ったところで、誰がぼくを責められるというのだ。


 そもそもぼくはこの歳になっても「講義」というものが嫌いだし苦手だ。多くの同業者もそう思うだろうが、「演習」の方が、手を抜いたり開き直ればずっと楽だし、真面目にやればやったでずっと楽しい。
 ただ「演習」で自分の書いたものを素材にするのはなんだかいやだし、変だ。昔書いたものは、時間がたってると案外客観化できるもので、その意味で教材にできないわけではない。しかし学生に自分の本について報告させてそれを聞くのは何となくいやだ。研究者を目指すエリート学生や院生なら、合評会のつもりでやれるけど、純朴な普通の学生相手にそれをやらせるのは何か気恥ずかしい。
 その点「講義」なら、専門的な研究書でなく、教科書として使えるものなら、自分の本を読ませてもそれほど恥ずかしくはない。自分も授業に出なかった人間だから、ちゃんと読んで理解してくれるなら、正直、講義本体に出席してくれなくたっていい。
 教科書がなければ学生には講義がすべてだから緊張を強いるし、こっちもいい加減に思い付きを垂れ流すわけにはいかない。しかし教科書があれば、講義の時間にはある程度好き勝手なことを言える。
 というわけで、フリーハンドを確保するために教科書を書くことにした。ただし教科書の素材となる講義ノートを作るために、2007年度の1年生さんたちには、教科書なしでのこちらのしゃべりに耐えていただくことになった。ノートはテスト前に一応開放したけれど、それでもみなさんノートテイクにご苦労されたものと思う。ありがとうございます。皆さんの死は無駄にしません……ってそんなに落としてはいないはずなんだが。


 それからもう一つ。
 これもまた個人的なことだが、ゼミ生ではないが少し面倒をみていた学生の一人が、まあモラトリアム半分だったようだがうちの大学院を受けて玉砕した。ここでぶっちゃけると、はっきり言ってうちの院など、真面目に勉強していれば落ちるはずがない。それでも落ちるやつは落ちていて、はたからは「小規模で定員もろくに満たせていないくせに厳しい」と言われているらしいが、落ちるやつは本当にあらゆる意味でダメなのだ。
 だから落ちたそいつもまあ本当にダメで、基礎がまるでわかっていなかったんだけど、一度話を聞いてみたら、そもそも「社会学」というものに対するきちんとしたイメージができていないことがわかった。ほどほどの成績で卒業できる程度にはちゃんとやっている学生なのに。
 重ねて言うが、うちの大学院入試など、学部でちゃんと勉強していれば通る程度のものなのだ。しかしこの現実。
 ちょっとうちのめされた拍子に、ぼくはそいつ相手に小一時間「社会学とは何か」についてぶってしまったのである。思えばそのしゃべりが今回の教科書の原型になっていたかもしれない。
 あの学生は卒業後どこぞの劇団の研究生かなんかになったらしいが、元気にしているだろうか。