セミナーの顛末

 英語で書き、報告するのは10年ぶりであった。
 前夜にコメント担当の院生からメールが届き「あんたのpaperは混沌としていてよくわからんから、いつもはこのセミナーはみんな事前にpaperを読んでくるはずなのでいきなり討論にはいるが、今回は特例としてhandoutを作って最初にプレゼンしてほしい」と。
 虫が知らせたのかこちらでも嫌な予感はしていて、当日配布用のSupplementary handoutを作っていたのでちょうどよかった。それをそのまま送ろう――としたが考えなおして1時間ほどで別のself-commentationを作って送る。
 翌朝「これでいい、これに沿ってこちらもコメントする」との返事が。そのままゼミをひとつさぼって改めてhandoutを仕上げる。(あいまに娘の宿題のためにNYTIMESの科学記事を翻訳する。驚くべき詰め込み教育のNY市小学校の光と影についてはまたいずれ。)

 夜7時半から宅配ピザとワインを頂きながら優雅にセミナーは開始された。戦々恐々としていたが――


「あんたの「市民的公共性」概念はもっときちんとした定義が必要だ」→「すまん日本語の原著ではもっと論じたんだがここではすっ飛ばした、しかしそれをやるともっと長くなる」→「それはこまる」


「「全体主義」概念は必要か? なぜ「善意の全体主義」という風に「全体主義」なる語を使わねばならないのか?」→「つまりは「公共性の欠如」が「全体主義」なのだといいたいのだが、そこでやはり「公共性」の定義が必要だな」


「あなたの言う「善意の全体主義」というのはつまり「公共性なき擬似リベラリズム」でいいのよね?」→「おっしゃる通り」


「「しかし「善意の全体主義」に対しては「内部からの抵抗・批判は不可能だ」として、ではそれに対して何をあなたは対置するのか? 結局のところ「現実には必ず外部は出来する」ということのようだがそれでいいの?」→「内部からできることは「祈る」ことだけだ、と私は書いた。しかし一体全体「祈る」って何?」→「そんなのあたしも知らないよ」


 普段から私はどっちかというと暴走機関車タイプで話し始めると脱線を繰り返しながら止まらなくなる方なのだが、こちらに来ると何しろろくにしゃべれないので抑制されるはず――がその反対にろくにしゃべれないからこそ普段以上に時間をかけてゆっくりゆっくり更に延々としゃべるはめになって皆さんにご迷惑をかけました。すみません。(とここに書いても誰も見ないよね。)
 しかし基本的に話が通じた(海の両側でみんなが問題としていることはそれほどずれてはいなかった)ことに一安心であった。


 せっかく書いたpaperだが、このままではたぶんどこにも投稿できないので二つくらいに分割しないとならない。やれやれ。