高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』追記

 id:apesnotmonkeysさんに、書かねばと思っていた論点につき先を越された。

「「中間層の形成」と「社会の流動化」とのタイミングの違いという観点から日中韓を比較した図式はなかなか説得力がある一方、読んでいてずっと違和感が拭えなかったのが“アジアへの贖罪意識が日本の左翼にとっての「賭け金」であった”という著者の認識。ぶっちゃけて言えば「これが若さか」と。80年代までの左翼の反戦運動は、(ヴェトナム戦争に日本が加担しているといった論点はあったにしても)圧倒的に「被害者意識」に導かれたものではなかったか? 例えば本多勝一の『中国の旅』が1971年、森村誠一の『悪魔の飽食』が1981年。これらが大きな反響を呼んだのは、それまで南京事件731部隊について語られることがあまりにも少なかったことを示している。従軍慰安婦問題がマスコミにとりあげられるようになったのはさらにその後である。単純化して言えば、一方で冷戦の緊張が緩むことによりアジアでも日本(軍)による被害を自由に語ることができる状況が到来し、他方でマルクス主義に依拠する左翼の敗北が明白になり左翼が別の道を模索するようになって(言い換えれば文化左翼化して)はじめて、「アジアへの贖罪意識」は日本の左翼にとっての重要な賭け金となった…というべきではないだろうか(その意味で、「いつまで謝ればすむんだ」という主張は間違ってもいるわけである)。」
http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1534355107/E20060424230708/index.html

 この指摘は完全に正しい。厳しく言えば「若さ」というより「勉強不足による事実誤認」である。