萱野稔人『国家とは何か』以文社)[bk1, amazon]はポストモダンの政治哲学、国家論の本としてよくできています。ホッブズの社会契約論には実は二つあることとか、国家論におけるホッブズスピノザの間には、実はそれほどの違いはないこととか、今度ちくま新書で9月に出す予定の拙著の問題意識とも通じるところは多いです。ドゥルーズガタリ千のプラトー河出書房新社)[bk1, amazon]を読み返したくなる本で、「ポストモダンも捨てたものではない」と珍しく思わせてくれます。国家を考えるときにはウェーバー的に「物理的暴力の組織化」を中心に考えないと駄目だ、という指摘はそのとおりで、その観点からアルチュセールイデオロギー論やフーコー権力論への「誤解」や、「想像の共同体」論の誤用をたしなめるあたりも好感が持てます。

 ドゥルーズガタリと同様に「国家は無から、征服者として出現する」と論じて社会契約論を批判するあたりは、しかしどうでしょう、ある意味大人気ない気もします。それは実際そのとおりだと思いますが、社会契約論はそのような意味での国家の起源論として読むべきではなく、「しかし被征服者の同意を調達できない征服者=国家は存続できない」という理屈として読むべきではないでしょうか。というような議論は拙著でしているわけですが。


 あとやはり読んでいて思ったのですが「どうしてポストモダンの議論はつまらないのか」と言いますと、見かけに反して実はあまりにもヒューマンだからなんでしょうね。定型化されたポストモダンで文化相対主義な議論はつまるところ、ピンカーのいう「ブランク・スレート」ドグマの下で、「人間精神は可塑的であり、その性質の範囲内でどのような社会でも文化でも実現しうる」と主張するわけですが、それは裏を返せば「そのように可塑的で「ブランク・スレート」な人間本性自体は変わらない」(ないしは「人間本性の変化など考える必要はない」)と考えている、ということでしょう。どういうことかと言えば、人間のソフトウェア面は果てしなく可塑的であるが、ハードウェア面は不変である、と考えている。あるいはハードウェア面についてはそもそも判断停止している。

 このような立場からの、ポストモダニストによるピンカーなど自然科学系の論者への「生物学的決定論」といった批判は、しかし実のところ誤解に基づいているのではないでしょうか。ピンカーはともかく、デネットドーキンス、そして更にいえばドイッチェやバロウ、ティプラーなどは明らかにもっと過激なことを考えている。(まあミーム論者デネットは存外「ブランク・スレート」に甘いのですがそれはさておき)つまり生物学的進化のプロセスの中で、そしてテクノロジカルな人間改造までを含めた、宇宙進化のプロセスの中で、まさに、ハードウェアとしての人間の可変性を論じているわけです。たしかにピンカーは人間のハード的側面が、そのソフト的側面(としての文化と社会)をある程度規制してしまう、と論じています。それゆえここで「人間のハード的側面が不変である」と仮定するならば、そのことは当然「人間のソフト的側面(としての文化と社会)のバリエーションも知れたものである」という結論に導くでしょう。しかし、この前提がそもそも共有されていなかったとしたら? 

 実はドゥルーズガタリは大部分のポストモダニストとは異なり、この前提を共有していなかったのではないか、とぼく個人は思っています。しかしたとえばネグリ&ハートは完璧に共有してしまっていたでしょう。小泉義之

     ハートとネグリは、帝国に対抗する反帝国の担い手を描写する際に、バイオ関連の用語を繰り返し使う。「創造的進化」「変身」「交雑」「変異」などである。ところが、それらは単なる比喩でしかない。(『生殖の哲学』河出書房新社、10頁)

という批判はまったく正しいと思います。たいていのポストモダニストが「怪物」だの「サイボーグ」だのいう場合、それは単なる比喩でしかない。しかしそれをあくまでも真面目に言うべきだ、というのが小泉の主張であり、多分ドゥルーズガタリにもその用意はあったのであり、そして当然にデネットやドイッチェにはありまくりなわけです。

 本書を読んでいても何となく、そういう弱点を引きずっているのではないか、という邪推をしてしまいたくなる。もっと権力や暴力のテクノロジカルな側面に注目してほしい。いや本人はしてるつもりなんだろうけど、テクノロジーに注目する、ということは同時にエコロジーに、人類史の生態学的側面に注目する、ということでもあるんですよね。(ヴィリリオじゃこの辺が弱いのでは? )ジャレド・ダイアモンドやウィリアム・H・マクニールを引くまでもなく。ちくま新書や『片隅の啓蒙』では、ぼくも及ばずながらその辺の試みは始めているわけで。