哲学とは(続)

 私は一貫してこれは対等な議論ではなく叱責であるというておるにの(以下略)。こうして本田由紀氏まで出てきたというのに何か言うことはないのか(以下略)。そもそもウェブの往来であれこれ言うことの醍醐味はこういう風に「当事者が出てきてこんにちは、坊ちゃん一緒に遊びましょ」というところにあるというのにそんなことでは(以下略)。好き勝手言いたければ2chにでも(以下略)。

 考えるに問題は(もちろんこういうのは「オマエモナー」の無間地獄におちいるのがつねであるが)、内田樹大先生風に言えば「荒谷氏に病識はあるのか」というところである。どうも一連のやり取りの中で荒谷氏には病識がどうも欠けているという結論に私は達しつつある。そういう人を説得することはできない。だから以下はもはや説得でも叱責でもない。ただこの事件にささやかな娯楽と教訓を求めるギャラリーにのみ向けられたものである。

 まず「まあ、自分の立場から見えるものをそのように書くだけならば、何の苦労もいりませんよね。書きようはそれなりに面白いけど内容的に何か新しいことがあるわけでもなく、要はうちのゼミ生でもいいそうな通俗的な哲学観だし。」とは、正規の哲学的訓練を受けた専門家としてはまことにごもっともなご立腹ではあるが、ではご自分の専門への痛い厨房の文句にはかような苛立ちと軽侮をお投げになるご自分はといえば「ジャーナリスティックに現場の社会学やっている人は、データいじくってオピニオンかざして、いい商売だなぁとしか思えませんでした。」などとまた痛すぎるご発言を公になさるわけで。これでは「まあ、自分の立場から見えるものをそのように書くだけならば、何の苦労もいりませんよね。書きようはそれなりに面白いけど内容的に何か新しいことがあるわけでもなく、要はうちのゼミ生でもいいそうな通俗的社会学(ないし経済学)観だし。」と切り返されても二の句が接げませんわな。

 それから「いなばさんの経済学書のはじめのところに、その本の「想定される読者」に、ソーカル事件ポストモダンに対する幻想が壊れた人というのがあったのですけれども、僕自身は当時、あんな流行りもんに影響受けてポモから離れる人なんて本当にいるのかと思っていたものですから、なんかあの事件を思想史上のスキャンダルとしてまともに受け止め、しかもいなばさん自身ももしかしたらその幻滅組に入っているのかもと思い、それは「ポストモダン」自身を哲学としては考えず、流行りものとして受け止めた結果ではないのか、というわけでした。」とのご指摘、なかなかに感じ入るところもある。しかしこの発言が実のあるものであるためには、第一に「ポストモダン」を単なる流行ものとしてではなくきちんと哲学として継承することが可能であり、第二に荒谷氏がそれを実践している、という二段階の条件がクリアされていなければならない。
 荒谷氏の言動にはそういう「ひょっとしたら俺もこの条件をクリアできていないのかも知れん、いや少なからぬ他人にはそう映っているようだ」という怖れの念があまり見当たらない。そういう無防備さがなければ、先のような、私の浅薄な哲学理解に対するそれ自体がごもっともなお怒りをあまりにストレートに出す、などという振る舞いは可能とはならないだろう。他人の哲学観と同じくらい自分の社会学・経済学観が浅薄かも知れないという怖れの念がもう少しあれば。

 ここで素朴な哲学観しか持ち合わせない私は、同じく素朴な「内在主義」に対する偏見も手伝って以下のように邪推してしまうのである――荒谷氏はひょっとしたら、「哲学」の土俵に乗って「哲学」の道具立てに慣れ親しんでしまえば、他の通常科学とか、更には普通の人々の日常的常識とかを、いくらでも「括弧に入れて」批判的に分析する特権を手に入れられるのだ、と勘違いしているのではないか、と。しかし私の素朴で浅薄な哲学観からすれば、もちろん客観的な学知として共有されている限りでの「哲学」もまた、それ自体がひとつの通常科学であり、その中で日常的に仕事をしていれば、それもまたともすれば頽落した常識となってしまいがちなのである。本来「括弧に入れる」とか「超越論的反省」というのはあくまでもその場その場での常識の拘束から身を振りほどこうとする努力のことなのであって、だとすればそれは多少ともきちんとものを考える人なら哲学者でなくともしばしば自分の現場で行うことがあるはずで、逆に職業的哲学者なら自動的にそれができることが保証されている訳ではない。(まあ私の理解する外在主義というか「第一哲学の拒否」というのはこういうことです。科学哲学屋さんのご意見を聞きたい。)では何がそれを可能にするのかと言えば――わかりません。ある人にとっては「大人の知恵」であり、あるいはある人にとっては「子供の稚気」であり、またある人にとっては「狂気」なんだろうが。
 つまり荒谷氏の主たる問題は「ポストモダン」にあるのではなく「哲学」にこそあるのだ――というのが私の見立てである。そんな風に「哲学」に安住してたらよい哲学者には(もちろん、よいポストモダン哲学者にはなおさら)なれないよ、ということ。