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大塚英志『サブカルチャー文学論』を一応読了、『「おたく」の精神史 1980年代論』(講談社現代新書)[bk1 amazon] にとりかかる。個人的に、いろいろと痛い指摘が多い。たとえば湾岸戦争時の文学者の「声明」について論じたあたりでこう書かれている:
あの文学者の声明は、80年代にすっかりボーダーレス化してしまった「知」とサブカルチャーの境界の一種の仕切り直しとしての側面があった(中略)。蓮實重彦が業界系少女まんが家とカフェバーか何かで同席してしまっている自分に困惑したエッセイを書いたのが80年代半ばだったが、そういった自体に「知」の側の人たちがいいかげん耐え難くなっていたという印象がその時点であった。
もっともぼくに言わせればサブカルチャーの方に足を踏み入れてきたのが「ニューアカ」や「ポストモダン」といった類の「知」やら「文学」の側であり、その結果としてぼくのようなおたく系のライターと仕事先や書くものがかぶってしまう、という事態が起きていた。大学院に残った同年代の研究者からあからさまな敵意を示されたのもこの頃で、しかしよく考えればアカデミズムに残った彼らがライター業界に手を出すからぼくと彼らの「差異」が見えなくなるのであり、ぼくが大学の紀要に論文を書いたり学界で発表をしたりして彼らのシマを荒らしたわけではなかった。
(333-4頁)
ここでの「同年代の研究者」とはまずもって大月隆寛のことを指すはずであるが、正直に白状すれば、無名の一院生であった当時のぼくは、目下売り出し中の大月のファンであり、知り合いに大月のミニコミ『俄』を読ませてもらってもいた。そしてもちろんそこで大月は、大塚を面白おかしく、しかしかなり本気で批判していた。ミスリーデンィグな言い方をすれば、それは生真面目な若い民俗学徒が、民俗学のジャーゴンを一知半解で振り回す半可通を叱りつける、民俗学的『「知」の欺瞞』だったのだと言ってもよい。
若手研究者としての当時の大月は、社会学、人類学、歴史学などの隣接諸科学にシマをさんざん荒らされ、その反動としてか、あるいは始祖柳田によって仕掛けられた呪いか、自己の固有の対象としての「民俗」の歴史性を忘れてそれを物神化してゾンビ状態に陥ってしまった日本民俗学への痛烈な内在的批判者として脚光を浴びつつあった。そんな彼による大塚批判はまさに、危機にある日本民俗学を建て直すための「仕切り直し」であったに違いなかった。そして今思えば、将来の不安ゆえにアカデミズムの規範に過剰適応してしまいがちな研究者見習の小僧として、ぼくも非常にあっさりと、無防備にこの大月による大塚批判を真に受けてしまった。そして結局ぼくが大塚英志を再発見するまでには、10年ほどの時間が流れた。いやはっきり言えば小田中直樹によるこの書評がなければ、いまだってどうだったかわからない。
しかし誰もが知るように、大月隆寛は学者としてもまた物書きとしても現在ほぼ死に体であり、復活の見込みは今のところはない。そして反対に大塚と言えば、かつての大月ファンのぼくから見ても、いまやもっとも注目すべき論客のひとりである。
大月がそうなってしまった事情にはいろいろと複雑なものがあったろうが、しかしもっとも致命的だったのは、彼がアカデミック・ポストを捨ててしまったこと、アカデミックな研究者であることをやめてしまったこと、であろう。大月による大塚批判の根拠は、今思えば結局、先に書いたように、プロのアカデミシャンのアマの半可通に対する優位以外にはなかった。彼がサブカルチャー領域で行っていたライターまがいの作業の流通価値は、あの当時のぼくから見ても、どれほど「無法松」を気取ろうと、あくまでも彼がその片足を堅気のアカデミズムにしっかりとおいていたからこそ発生しえていたのである。彼の書き物の質は、学術的著作であろうと売文であろうと、実は彼が給料と研究費を保障されていたがゆえにこそ保たれえていたのだ。(教室では彼は多分結構いい教師だったのではないか、とぼくは推測する。)そして給料を失ったとたん、彼はもはや知的な貯金を積み上げる余裕を失い、取り崩すばかりになっていったのである。
翻って大塚は一貫して売文およびその周辺の商業的ビジネスのみにその基盤を置いてきた。そしてその中で、たとえわずかずつでもあれ、積み上げる術を獲得していったのである。その違い、当初はわずかだったかもしれないその違いが、いまや大月と大塚の間に残酷なまでの歴然たる違いを生み出してしまった。
さて何が言いたいかというと、ぼくはもちろん大月のように大学を出るつもりなど毛頭ない。ぼくのわずかな商業的価値は、あくまでもぼくが大学に片足を、しかししっかりとつけているがゆえにこそ発生しているのだ。しかし大月が大学を、アカデミズムを去ってしまった理由が、全然理解できないわけでもない。
ひょっとしたら重大な誤解をしているのかもしれないが、大月が大学(個別の大学なり研究機関をというのではなく、大学的な職場)を去った理由のなかには、案外とある種の引け目が――直接は大塚英志に対してのものではなかったかもしれないが、呉智英や浅羽通明、あるいは橋本治など、一貫して在野で売文で身を立ててきた論客たちへのコンプレックスがあったでは、とぼくは思う。それは言い換えれば、「シマ荒らし」への引け目である。民俗学アカデミズムや、あるいは文系大学人に瀰漫する朝日・岩波的エセヒューマニズムへの愛想つかしなどは、それに比べれば二義的なものだったのではないか。