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6月21日「BRAINZ 人文系の壁 第1回 憲法」稲葉配布資料
配布資料ですからこの通りしゃべったわけではありません。対談だし。
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☆第二次安倍政権下での自民党その他の改憲案を巡る動向についての雑感
・改憲案自体ならびにその議論のされ方の特徴:96条(改正条項)が一番の焦点
ついで人権
平和主義(9条)はそれほどでもない
・プロの憲法学者の反応:意外に遅い。本格的な動きは春以降?
冬の時点では「世田谷事件」の最高裁判決(2012年12月7日)の方に注目が集まっていた。
推測される理由:今回の自民党草案その他の改憲案がいずれも「出来が悪すぎて真面目に検討するに値しない」ものだったから
→
法律素人の疑問
「機械や建物であれば、あまりにお粗末な設計のものはそもそもものとして完成しないし、完成したところでまともに動かないだろうが、法律の場合には、あまりにお粗末でもとりあえず手続きを踏めばできてしまうかもしれない。できてしまってから「さあ困った」では遅いのではないか?」
→
想定される法律家の解答
「法律についてもあまりにできの悪いものは法案が国会に上程される前にいろいろとチェックが入る。とりわけ内閣・国会の法制局をなめてはいけない」
→
更なる疑問
「普通の法律はそうかもしれないが、最高法規たる憲法はどうか?」
→
「実は改憲の違憲性自体を最高裁の司法審査にかけることもできる」
→
「違憲審査制って付随的審査制で、誰かの具体的な権利の侵害が争われるついでに憲法判断がされるってやつじゃないの?」
→
「定数是正訴訟とか住民訴訟とかそれにはまらないものはいくつもあるしやりようはある」
→
……
☆憲法学者他プロの基本発想
・そもそも法律はおもちゃにしていいものではなく憲法はとりわけダメ。
・わざわざ改憲しなくてもできるはずのことを改憲してやろうというのは無駄という以上に副作用が大きい。
――それぞれもっともだがそうした議論の根底にあるのは、
「憲法のいえども法なのだから素人はとりあえずプロに任せておきなさい」
という発想であるとは言えないか?
☆そもそも立憲主義って何?
・今回の改憲案に対する警戒は人権条項や改正条項等が中心であり、「立憲主義」がキーワード。
「憲法の名宛人は国家であり、まずは市民社会の個人ではなく国家、統治権力をこそ拘束するものである!」
→
それはごもっともですが、どういう理由で、どういう基準でもって拘束するんですか?
・古典的な立憲主義においては、君主の統治大権を議会や裁判所その他の機関などとの権力分立によって統制する、というのがポイントだった。
→
立憲主義と民主主義の間にさほどコンフリクトはなかった!(民主主義は体制というよりは運動だった?)
・近代的な立憲主義においては、民主主義と立憲主義の間のコンフリクトが問題になる。一体全体なぜ主権者人民の権力がそれ以外のものによって拘束されねばならないのか?
理由1:民主主義の暴走・自己破壊を防ぐため
理由2:民主的な政治による(特に少数者の)人権侵害を防ぐため
この二つは互いに矛盾するわけではないが、それでも相当に違う考え方である。
1の考え方に従えば、人権は民主主義の内在的構成要素であり、人権の保護はいわば民主主義が暴走して自己破壊しないための自己規律とみなされる。
2の考え方に従えば、人権は民主主義とは別個の、いわば民主主義の外側にあり、民主主義よりも優先されるべきものであるということになる。
2はいわば自然法論。ロールズ以降の現代正義論の主流。ただし形而上学的には胡散臭い。(「自然法」なんてほんとにあるの?」)
それは自然法を否定した近代法思想の主流(たとえば法実証主義)が全体主義の台頭を防げなかったことへの反省から20世紀後半に復興したけど……?
1の難点は、人権の中心が政治的権利になってしまい、その非政治的・私的側面がなおざりになりがち。憲法理論としても国家論偏重で国家と市民社会の関係についての捉え方が弱くなりがち。
この1の考え方と2の考え方との対決ともいうべきものが、かつて90年代から2000年代初めにかけての松井茂記と長谷部恭男の論争であるが、松井の旗色が悪いまま、消化不良でなしくずしに立ち消えとなった。
・現在、1の考え方をとりつつ、なお私的領域の問題を真面目に取り上げる議論もまた、たとえば石川健治によって精力的に構築されつつある。(実はドイツ国法学を継受し、プロイセン憲法を手本とした日本の憲法史上は、1の発想の方が先行し正統的であるとさえいえる。)
そこでは自由と自由権が区別される。自由権は特別に権利として法によって保護されるのに対して、単なる自由は尊重されるにしても必ずしも権利として保護はされない。
具体的にどのようなものが「単なる自由」かといえば、たとえば散歩したり昼寝したりする自由がそこで想定されている。それは「法によって許されている」のではなく、「法はそもそもそれに関心を持たない、関わらない」のである。私的な領域での自由な振る舞いは他人や社会全体に対して大した影響を及ぼさないので、法による規制を必要としない。その意味での単なる自由は「法の外」にある。法がかかわるのはこの公的領域と私的領域との線引き、そして公的領域内での人々の関わり合い、であり、自由の権利としての保護が問題になるのも公的領域でのことである。
こう考えることによって、権利をあくまでも国家という約束事の圏内にとどめつつ、国家の外側の市民社会とそこでの人の自由と、国家とそれによる権利の保障の関係をなんとかつけることができる。
こうした構成によれば、憲法的な権利は「自然権」「天賦人権」ではなくもっと具体的なもの、具体的な国家や共同体のメンバーシップ、つまり広い意味での「身分」だということになる。実際、石川によれば憲法的な意味での人権とは「身分」である。近代国家はかつての身分差別を解消し、原則的にすべての人間を自由人という一つの身分に統合したのであって、身分それ自体を解消したのではない。またそこには隠れた身分差別(区別?)、すなわち自国民と外国人という身分差別(区別?)が残る。それでも、地上のすべてがどこかの国家に属するならば、誰もがどこかの国家に属するはずだから、国民と外国人との身分差別もそこに解消される。
・こうした考え方によれば、法的な権利としての「人権」と、日常語としての「人権」は全く別のものとなる。「自然権」論によれば前者は後者の具体化であるのに対して、石川が展開したような枠組みにおいては、後者は前者を導く指針ではあっても、それ自体は法的なものではなく、せいぜい政治的、道徳的な理念にとどまる。このあたりの言葉づかいの微妙さが、誤解を招くものとなっている。
例えば同じ実定法学でも、国際法上の「国際人権」と、一国レベルの憲法的な意味での「人権」とは、全く別のものを指す。(前者は常識的な意味での「人権」により近い。)
☆憲法学をあえて人文系的に「思想」として読むならば?
・松井・長谷部論争は法解釈学的論争という以上に政治哲学的論争として読めて、その限りでは素人にもわかりやすい。
→逆に言うとそれが法解釈学、つまり現実的な法の解釈と運用にどれくらい寄与するのか明らかではない。
・90年代における長谷部の活躍は俗に「憲法学におけるメタ理論の盛行」の先駆となり、若手の憲法学者が「技術的な実定法解釈論だけではなく、壮大な政治哲学的な論文を書いてもよい」という雰囲気をもたらした。その功績は大きいが、実定法解釈学としての憲法学にどれくらい寄与したのか?(cf.安念潤司)
・長谷部も問題は十分に意識していたであろう。2000年代に長谷部は多くの啓蒙書をものする。それは政治哲学的語彙で書かれて素人にもリーダブルであったが、そこでは政治思想としてのリベラリズム用語の主張が展開されると同時に「憲法も法なのだから法は法律家にまずは任せなさい」というメッセージもしっかり紛れ込ませる。更に法学徒のための教科書(いわゆる「基本書」)も上梓する。(これは松井も。ただし啓蒙家としては松井は長谷部には全く及ばない。)
・2000年代には長谷部的メタ理論の隆盛への反動か(しかしその反動に長谷部自身もまたコミットするものであろう)、「実定法解釈学としての憲法学のリハビリテーション」というべき動きがはっきりする。石川による先の考察は、そうした実用的法解釈技術の洗練という課題の副産物として上梓されるという仕掛けになっている。(なかなか巧妙である。)
この流れで目立った存在としては石川の他、同世代では蟻川恒正(判例を読み込み、その含意を引きずり出し再構成する法技術的かつ文学的手腕においておそらく右に出る者はいない)が圧倒的な支持を集めているが、この世代の憲法学者は、長谷部とは異なって法学プロパー外に呼びかける著作活動を行っていないし、そもそもまとまった教科書さえ書いてはいない(雑誌連載企画が未公刊)。むしろ一世代おいて木村草太、宍戸常寿といった若手が広く支持を集める教科書・啓蒙書をものして注目を浴びているが、理論的な骨格において石川、蟻川らの影は消しようがない。
☆付録:私信より
もともと憲法学という領域は法律学全体の中でそれほど地位が高いわけではない。また憲法学の中での学問的評価の高さが、実際の政治や法解釈への影響力に直結しているわけでもない。
たとえば、いみじくも君が言ったように、我々が学生だった頃母校で教鞭をとっておられた杉原泰雄先生など、確かに学界の重鎮で、学者としての実力は誰しもが認めるものだったけれども、最高裁判例や国会での政府の憲法解釈に対しての影響力は、普通の意味ではほぼ全くなかったわけだ。人民民主主義路線の杉原憲法学にしても、あるいはその強力なライバルとなった樋口陽一先生の立憲主義憲法学にしても、裁判における法の解釈適用や、制度設計の具体的指針を提出する技術というより、近代国家についての社会科学・プラス・規範的政治理論というべきものであったように思われる。
その後続の、90年代の研究をリードした世代もまたこの点では同様だったと思われる。若い世代に大きな影響力を持った長谷部恭男先生の仕事を安念先生は「メタ理論」と呼んだ。彼の「メタ理論」的な仕事は政治哲学・法哲学の議論によって憲法解釈論の基礎付けを行おうというもので、ある意味杉原・樋口以上に法律学徒以外への訴求力を持つものとなったとは言えるけれども、法解釈学としての憲法学のリハビリテーションとしては依然迂回路をたどっているといえなくもない。
司法試験受験生などの間で今日なお「通説」「神」として遇される芦部信喜の業績の意義のひとつは、アメリカ合衆国から「憲法訴訟論」を輸入し、大学・司法修習所等での教育実践を通じてその定着を図ったこと、すなわち司法審査制度の下での裁判規範として憲法を生かすことを本気で試みたこと、にあるのだと思う。ただこちらの方もアメリカの判例理論から違憲審査の「基準」を抽出し、それでもって日本の憲法判例を読み直す作業は行ってはいるものの、日本の裁判所――最高裁の憲法判断のロジックの内在的な再構成はできておらず、ただ最高裁の判例に対して外在的に「基準」を当てはめて批判する以上のことが十分にできていないのでは、という批判がなされているらしい。近年ではドイツ憲法学から「三段階審査」という新しい枠組が輸入されているけれども、油断すれば同じ轍を踏む羽目になるだろう。
この辺を踏まえて、「比例原則」という考え方でもって日本の最高裁の憲法判断のロジックを内在的に再構成した上で、ドイツ風の「三段階審査」も別様に組み替えた上で日本での憲法解釈に応用しようとするのが石川健治先生だが、彼が駒村圭吾・亘理格両先生との『法学教室』リレー連載において心がけていたのは、他の法律学諸分野との連絡を深めることだ。裁判所が憲法判断をする場合というのは結局、個別の事件において特定の法律が違憲かどうかが問われる場合なので、当たり前の話だが憲法だけを見ていても理解できるはずがない。行政法を中心に民法その他「普通の法律」の解釈論の知識が必要になる――というわけで憲法学の法律学のなかでのゲットー化を打破しようという問題意識がそこには見られる。
ただしこういう作業は、技術としての憲法学のリハビリテーションとして、法律学のなかでの憲法学ゲットーの破壊作業という大変健全な方向に則ったものであると同時に、我々法律素人にとっては、憲法学を法律学ゲットーの中に囲い込む作業にも見えてしまうのだな。
☆つまり我々素人としては?
現在の憲法学は、裁判その他実際の法実務の現場で「使える」憲法学を目指す、という方向で進んでおり、かつそれは単に目先のことに囚われるのではなく、石川のように比較法学的・法史学的に広い射程をにらみ、あるいは蟻川、遠藤、あるいは木村のように具体的な現場――裁判のみならずそのおおもとの紛争――に分け入るという、広い射程を持ったそれなりに健全な方向で進んではいる。
しかし他方で、一時期の長谷部のメタ理論的展開などと比べると、素人にとっては近づきがたいものになってもいる。
――では、どうすればよいのか?
☆参考文献(読みやすいものには○をつけた)
・新書の啓蒙書
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書○
- 作者: 長谷部恭男
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2004/04/07
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- 作者: 木村草太
- 出版社/メーカー: NHK出版
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・教科書(法学部生・ロースクール生向け基本書・演習書)
長谷部恭男『憲法』新世社
- 作者: 長谷部恭男
- 出版社/メーカー: 新世社
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- 作者: 松井茂記
- 出版社/メーカー: 有斐閣
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- 作者: 木村草太
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憲法 解釈論の応用と展開 (法セミ LAW CLASS シリーズ )
- 作者: 宍戸 常寿
- 出版社/メーカー: 日本評論社
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- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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石川健治・駒村圭吾・亘理格「憲法の解釈」『法学教室』2007年4月号〜2009年3月号、未刊。
蟻川恒正「プロト・ディシプリンとしての読むこと 憲法」『法学セミナー』2010年4月号〜2011年5月号、『憲法事例問題の解き方』として日本評論社より刊行予定。
・「では、どうすればよいのか」≒「そもそも実定法解釈ってどういうことだ?」
木庭顕「法学再入門 秘密の扉 民事法篇」『法学教室』2013年4月号より全24回予定。(完成の暁には革命的な法学入門となるはず。東大法学部に実在した「学習困難者のための法学再入門」を基にしているとのこと。)