高知工科大学特別講義「理工系学生のための現代倫理学入門のこころみ」

理工系学生のための現代倫理学入門のこころみ

(2021年2月12日 高知工科大学講義「日本人の教養」用原稿)

 

稲葉振一郎明治学院大学

 

1.長めの導入 文系科目――人文科学とは?

 高校科目の「倫理」は大体道徳を中心とした日本思想史、東洋思想史、西洋思想史をざっと眺めたうえで、現代哲学を道徳哲学=倫理学中心に瞥見し、それにプラスして青年心理学をちょこっと、という変な構成になっている。こんな風になったのにはそれなりに理由があるのだが、それには触れない。

 高校時代の地歴公民――昔の社会科というのは変な構成になっている。高校数学は大学以降の数学の準備であり、高校理科の物理・化学・生物もおおむね大学以降の物理学・化学・生物学の準備段階である。しかし高校地歴公民は?

 地歴から行こう。世界史・日本史は一応大学以降の歴史学の準備になっていなくもない。しかし地理は大学の学問としての地理学への準備というわけではない。高校地理の半分(地理B)は世界各国、各地域の諸事情についての雑学という色彩が強く、その意味では経済学・政治学・国際関係論などにおける地域研究の準備といった方がまだしもである。そう考えると日本史・世界史にも歴史学プロパーというより社会科学の準備という性格が強い。

 では公民の方はどうか? 現代社会、倫理、政治経済というのはいったい何か? 現代社会は社会学の、倫理は倫理学を含めた哲学の、政治経済は政治学法律学・経済学の準備となっているのか? 

 高校社会(地歴公民)は理科と違って暗記科目だ、とよく言われるし、実際その批判は当たっていなくもない。どういうことかといえば、高校の物理と化学は知識を詰め込むだけではなく、基礎的な理論を教わり、その使い方を練習するという意味で、大学以降の学問の準備となっているのだが、高校の地歴公民にはそのような色彩が薄い。高校の政治経済で生徒たちは、経済学の基本的な考え方や理論を教わるわけではないし、法解釈の仕方を教わるわけではない。哲学者の名前と彼らが提示したアイディアのことは教わるが、その使い方を教わるわけではない。よくできる生徒たち、難関大学の受験に挑む受験生たちには、日本史や世界史において、ただ歴史的事実の知識を詰め込まれるのではなく、それらの有機的連関の重要性を教わるのだが、その有機的連関の解明こそが経済学、政治学社会学といった社会科学の主題である、ということまでは(はっきりとは)習わない。

 大雑把に言えば、高校理科では物理を中心に少しは理論が体系的に教えられるけど、高校社会(地歴公民)でははっきりと主題的には教えられない。だから「社会科は暗記科目」と言われるのである。でも、なぜそうなっているのか? 

 ひとつには社会科学においては、自然科学、特に物理学におけるほど、はっきりと確立しており、なおかつ体系的に整理されて、学ぶことが簡単な「理論」というものがないことが非常に重要なポイントである。社会現象のほとんどはいわゆる複雑系であり、扱いづらい。もうひとつ重要なことは、理論を検証する実証の困難さである。自然科学の大きな発展の理由のひとつは、実証の手法としての実験の隆盛であるが、社会科学においては実験は不可能ではないにせよ著しく困難であり、実験による研究対象への積極的介入ではなく、受動的な観察を主たる実証手法とせざるを得ない(社会――人間を対象とする実験には、固有の倫理問題も付きまとう)。さらに重要なのは実証研究のデータ処理における統計という方法の困難性である。社会科学のような複雑な対象の理解において有益な知見を得るために、特に理論が追い付かない場合には大量観察とそのデータの統計的処理、という方法が非常に有益であり、実際今日の科学研究において統計的手法の必須性はもはや常識となった感があるが、実のところ今日的な意味での統計的手法の確立は意外なほど最近である。極端なことを言えば、高校で習うレベルの物理学の発展には、統計学の助けを得る必要は基本的にはなかった。理論的探究においてはもちろんのこと、実証においても、データの統計処理を必要とするような局面は、20世紀にはいるまではさほどなかった。ガウスによる誤差の理論的な取り扱い、正規分布と最小二乗法の発見は既に18世紀末になされていたというが、それが科学研究において本質的に重要なものとしての地位を得るのは20世紀以降、フィッシャーらによる、主として農業や製造業の実践的な現場における実験計画法の確立以降ではないだろうか。

 そもそも、こうした大量データの統計処理という作業は、データの収集と整理はもちろん、それらのデータの計算処理、解析の両面において、あまりにも大きな労力を必要とするものだった。これは今日のインターネット社会、人間のありとあらゆる行動がデータにとられて蓄積される方向に進みつつあるのみならず、そうしたデータの解析が飛躍的に容易になった現代のわれわれには、少々想像することが難しいかもしれない。しかしながら還暦まであと2年となった私は覚えている。1980年代、高校時代にようやく、街のゲームセンターのゲームがほぼ全部「テレビゲーム」となり、お金持ちかつ好事家の友人のうちにごく初期のパソコンがはいるようになったが、そこで大学に入学しても、依然として情報処理の授業は、計算機センターの大型機に食わせるためのパンチカードに穴をあけるところから始まっていたのを横目で見ていた。大学院に入ってからはパソコンにも表計算ソフトが標準装備され、簡単な回帰分析程度ならできるようになったが、数十組程度のデータをえっちらおっちら手打ちするのがせいぜいだった。

 乱暴に言えば社会科学においては長らく、いやひょっとしたら依然として、少数の確立された法則から演繹的に組み立てたモデルや、厳密な計測によって得られた知見に頼るよりも、大雑把な「中範囲の理論」と直観的な記述の方が有効な局面が多いのかもしれない。無機的な物理世界とは異なり、生態系や人間社会といった高度に複雑なシステムにおいては、演繹的なモデルも複雑になりすぎて理解も操作もしづらくなることが多いし、また管理された実験室とは異なって未知のノイズを統制することも難しい。だから厳密な方法で積み上げるための労力が膨大となり、少なくとも短期的には場当たり的な人間の直観や経験知の方が有用になることも多い。もちろん近年では、人間のこの直観や経験知に対して、機械学習が有力なオルタナティヴとして迫撃中であるわけだが、ブラックボックス性は解消されるどころか人間の場合以上になりかねない。

 このような事情が、高校までの文系科目、具体的には地歴公民、社会科が高校までは暗記科目となっている理由――人文社会科学における理論の教育が、大学以降にずれ込む理由の大きな部分を占めている、と言えよう。ただこれだけであれば、理系科目においても、生物、地学が暗記科目となってしまっている理由もまた基本的には同様であると言えよう。人文社会科学においてはこれに加えて「意味理解」という課題が加わる。ではこの「意味理解」とは、あるいは「意味」とは何か? 以下では、この「意味」という現象に、非常に偏った、しかし偏った分単純でわかりやすいアプローチを仕掛けてみる。

 解析力学を習うと「最小作用の原理」で物理世界を統一的に理解しよう、というアプローチに出会うだろうが、生物学の世界でも、代謝や行動を理解する際にこのアプローチは有用である。そして何より進化、自然選択というアイディアは、このような「最小作用」の経路が実現する――最適な代謝や行動を行う生き物が出現して繁栄するメカニズムを描き出す。

 そしてこのロジックは人間行動の理解においても、とりあえず経済学において利益の最大化、コストの最小化として経済行動を理解、説明するという形で威力を発揮し、更に心理学において経済行動以外にも一般化された。ただし現実の人間は複雑であり、最大化しようとする目標は必ずしも自己の経済的利益だけではない。

 そもそも人間を含めた多くの――具体的に言えば複雑な脳神経系を備えた動物の行動は、快楽を求め、苦痛を避けるという方向で理解することがある程度できるが、快楽の追求=苦痛の回避と、効率的な繁殖は必ずしもイコールではない。大雑把な傾向として、動物個体が快楽を求め、苦痛を避けることによって生き延びて繁殖するチャンスを高めるというだけのことである。「快楽」の定義上、心ある動物は快楽を求めている(心あるものが求め、それを得ることによって満たされる対象とは、まさに定義上それ自体が快楽、ないしそれを与えてくれるものであろう)とは言えても、繁殖を(心あるものにのみ可能な仕方で、つまり自覚的に)目指しているとは言えない。そして更に、繰り返すが、人間の(そしておそらくは人間以外でも、とりわけ高度な認知能力を持つ動物の)追求する快楽は複雑で多種多様であり、「快楽を追求している」という枠組みのみではその行動を十分に理解し、説明することはできない。つまり人間行動の理解と説明においては、様々な生の局面で、具体的にどのような快楽を、どのような目標を追求しているのか、をまず理解した上でないと、「快楽・利益の最大化」といった説明原理の使いどころがないのだ。

 伝統的に人文科学で「意味理解」と呼ばれてきたものを、理系――自然科学の枠組みに引きつけて解釈するならば、このように考えることもできるだろう。多くの場合、人間行動の理解においては、単純な経済学流に「どうやって自己利益を最大化しようとしているのか?」という問から出発するよりも、まずは「何を自分にとって大事な利益とみなしているのか?」という問を立てることの方が重要である場合が多いのである。

 

2.哲学とは?

 さて人文社会科学とは何かという話を、理系――自然科学を標準として考える人たちに理解しやすいようにという頭で話してきたわけだが、「人文科学」といわず「人文学」という言い方をすることもあり、果たして「人文科学は科学か?」という疑問を抱く人もいるだろう。

 人文社会科学の対象が典型的な複雑系、つまり普遍的な基本法則からの演繹だけではその有意義な理解が成り立たない、ということは、言い換えるとそこでは普遍性、一般性だけではなく物事の個性、唯一無二性、一回性の方に注意が払われる、ということでもある。ここでも再び高校で暗記科目扱いをされてきた生物・地学との共通性が浮かび上がる。生物現象の理解においても、生物進化のプロセスは非可逆的で一回性の高い、唯一無二の歴史過程であることが強く意識されるし、地球科学や天文学でも、普遍的な物理法則による現象の理解・説明は必須とは言え、特定の地形や天体など、現象の唯一無二の個性への関心は相対的に強い。普遍的な法則が似たようなものをたくさん反復的に生み出すという側面だけではなく、その似たようなものの間にある多様性にも配慮は払われる。

 こうしてみると、科学の本質、本旨が「普遍的な法則性による世界の統一的な理解」であるというひと昔前の科学観はやや的を外したものであることがわかる。統計的な方法を実証研究における必須のものとする生物科学や人文社会科学では、普遍的な法則性よりも、ものごとの個別具体的な因果連関に焦点を当てるのが科学的な実証研究である、という考え方が有力となってきつつある。そのように考えれば、必ずしも普遍的な法則による理解・説明は重視しなくとも、事実の具体的な因果連関に注目する人文的な歴史科学は、立派な科学であることになる。

 ただしここで問題となるのが哲学である。もちろん哲学という言葉・概念は歴史的に、状況に応じて違った意味をもって展開されてきた、ただ今日の我々の常識的な哲学理解では、哲学と科学は区別される。また宗教、信仰とも哲学は区別される。

 ヨーロッパ史を見てみれば、どちらかというと、長らく哲学と科学の区別というものはなく、まず宗教改革以降、信仰と哲学の区別が明確となる。中世においては信仰の理性的正当化を任務とするという形で、哲学は神学の下位部門のような扱いを受けていたのだが、宗教改革以降、哲学と宗教は分離独立していく。乱暴に言えば宗教的な信仰とは、ものごとを(具体的には神による世界の創造と支配、そして人間に対する救済を)理由なしにただ信じることの上に成り立つのに対して、哲学はひたすらにものごとが現にそのようになっている理由を問い続けることによって成り立つ。

 そして更に、ここで有名人を持ち出すならばいまでも哲学者の代名詞っぽい扱いを受けているカント以降には、哲学と科学の区別というものも定着してくる。大雑把に言えば科学はものごとは経験的な探究であるのに対して、哲学は超越論的=先験的(経験に先立つ)な探究である、という区別だ。カント的な考え方によれば、どのような経験的探究――ものごとを実際に見聞きし、場合によっては触り、いじくり回すことによってその成り立ちや振る舞いを理解するという営みにおいても、それを可能とする前提というものがある。そしてこの、ある経験的な知識の獲得を可能とし、根拠付けている前提をどんどんさかのぼっていけば、絶対に経験的には確証できないようなレベルに達してしまう。ややこしい言い方をしたが、具体的で卑近な例を上げれば、我々は「動物とはなにか」ということについての明確な定義など知らずに、動物についての知識を経験的にどんどん獲得していくことができる。しかしながらここで「我々はどうやって動物と動物ではないものとを区別しているのだろうか?」とか生真面目に問いはじめると困ったことになるかもしれない。動物について具体的に知るためには、まずその前提として、何が動物で何が動物ではないか、を我々は知っているはずだ。でなければ調べるべき対象としての「動物」を選ぶことができないではないか? だがここでよく考えてみると、我々は動物を特徴づける――動物と動物ではないものを区別する具体的な特徴、条件についていろいろと列挙することはできても、その中でいわば動物の「本質」、必要十分条件が何であるかについては、実は明確な自覚を持ってはいないことに気づく。

 カント的な考え方では、人間の知識というものは、実はこのような階層的構造を持つ。経験的な知識が成り立つことを可能とするが、それ自体は決して経験的には確かめられないような、いわば経験に先立つ=先験的(超越論的)な知識というものがある。「動物」とか「人間」とかいった概念や、あるいは論理といったものは、そういう種類の超越論的知識なのだ。哲学とはこの超越論的なレベルを対象とする学問であり、その意味で経験的な知識の探究である科学とは次元を異にする――だいたいこういうのが、カント以降人口に膾炙した、一時期常識的だった哲学観である。

 そして倫理学――道徳についての学問が科学というよりは哲学の仲間、一部門であるという考え方も、ここに由来する。倫理、道徳というものは超越論的だ――この世界で現実に人は殺されているが、そのような事実があるからといって、「人を殺すことは悪いことだ」という道徳的な規範は揺るがない――、というわけだ。

 実際には現代、21世紀においては、このような哲学と科学の峻別はだんだん下火になってきており、科学と哲学を断絶したものというよりは連続したものと捉える考え方が有力になってきている――そもそもこのような区別をしてしまうと、数学の立場がわかりにくくなる――が、峻別が否定されているだけで区別――それが仮に程度の差でしかないとしても――が否定されているわけではない。力点、焦点の置きどころの違いというものはある。

 

3.理工系学生のための現代倫理学の見取り図

 知識における経験的な水準と先験的=超越論的な水準の区別というのは、哲学風に言えば認識論の問題であるが、倫理学の主題である道徳を含めた、「である」の水準と「べき」の水準、事実と規範・価値の水準の違いというのは、どのような性質のものだろうか? 先の言い方だと後者の区別は前者の区別の応用編で、事実は経験的な水準にあり、規範・価値は超越論的な水準にある、という風な話に聞こえるかもしれない。実際このような考え方は20世紀前半に大きな影響力を持った。経験的な水準と超越論的な水準をきちんと区別したうえで関連付け、現代的な科学の基礎固めをしよう――正しい科学的研究のための基準を作ろう、という一種の思想運動として、20世紀前半の科学哲学における有力なプログラムとしての論理実証主義、というものがあったのだが、この立場から倫理学を展開しようとした論者の間で有力だった考え方は、道徳的な判断というのはいくつかの基本的、根本的な道徳原理とされるものからの、適切な論理的推論によって導かれるものだが、そこでのあらゆる道徳的推論の基礎となるはずの根本的な原理には、それ以上さかのぼって理由付けすべき更なる基礎というものは存在しない、というものだった。そして宗教・信仰の場合のように、そうした根本原理は神によって与えられた啓示であり、それゆえに正しい、という理屈をとらないのであれば、道徳的判断には根拠がない、ということになる。すなわち道徳的判断とは、突き詰めればその判断主体の無根拠な選択、あえて言えば独断的な好み、気分に還元されてしまう、というのである。

 このような考え方――道徳的判断とは客観的な事実についての判断ではなく、主観的な態度の表明に過ぎないという立場は、のちに情動主義、表出主義などと呼ばれるが、20世紀前半の特に英語圏倫理学において有力なものとなった。この立場をとると道徳的判断が客観的、つまりは普遍的で公共的でもあるように見えるのは単なる錯覚であり、実際にはそれは独断的、主観的な好みの表明でしかない、ということになりかねない。そこで「道徳判断は客観的ではないが、だからと言って単なる私的な好みの表明ではなく、普遍的で公共的である。しかしその普遍妥当性の理由は科学的知識におけるような客観的事実性ではない、ではそれはそのようなものか?」といった問いかけがさらに生まれる。さかのぼればカントの道徳哲学も実はそのような問題設定を行っていたことも確認される。

 道徳的判断が客観的事実判断ではないが、さりとて単なる独断でもない、となれば次に出てくる有力な考え方は規約主義、つまり道徳とはある種の共同主観性、集団的な約束、決まり事である、というアプローチだ。ただしこのような規約主義をとっても問題は発生する。人々がそれに合意さえすればなんでもあり、というわけではなく、たくさんの人々に受容されて規約になりやすい判断と、そうではないものとがあり、その差は何か? といった風に。その困難を突き詰めていった果てに「規約になりうるものとなりえないものとの違いが客観的な事実としてあるならば、実はそれは道徳的事実としか呼べないものであり、となれば道徳的判断も事実判断の一種だと言って差し支えないのではないか?」といった議論も20世紀末以降有力となる。しかしこの場合には「Aをすることが道徳的に正しいということは客観的事実である。しかしながら私はAしたくない」という誰かの判断は、道徳的に正しくないかもしれないが、決して非合理的ではない、というパズルが生じてしまう。振り返ってみると、表出主義的な発想においてはこのパズルが生じえず、それがこの立場の強みであったわけだ。

 ――20世紀以降の哲学的倫理学においては、大まかに言ってこのような議論の流れがあった。それは「道徳(的判断)とはいったい何か?」という問いをめぐるものであって、伝統的に倫理学の問いの中心であったはずの「何が道徳的に正しいのか?」という問いかけではないことに注意されたい。このような流れを「メタ倫理学」といい、それに対して「何が道徳的に正しいのか?」を具体的に問う営みを「規範倫理学」と呼ぶようになった。

 現代的な規範倫理学の原点は、またしてもカントとその時代にさかのぼり、カントの倫理学と、ジェレミーベンサム以来の功利主義倫理学との綱引きとして、以降の規範倫理学――人はどのようにふるまい、どのように生きるべきか、そのために社会の枠組みはどのようなものでなければならないか、をめぐる問いかけ――の歴史は描かれることが多い。しかしながら20世紀後半から、実はこのような倫理学の展開は近代的な偏向であり、本来の――西洋の、いやことによったら人類史そのものの――オーソドックスな倫理学、道徳哲学からの逸脱ではないのか? という問いかけが行われるようになった。ここでおーそどくしーとして参照されるのはアリストテレスであり、中世のカトリック神学、とりわけトマス・アクィナスであるが、中国思想などにもそのカウンターパートが見いだされることも多い。

 カント主義と功利主義の対立とは、後者が善を個人(更に感覚的生物全般)の快楽、幸福の実現と同一視して、正義を公的なレベルでの善の促進(ベンサムの言う「最大多数の最大幸福」)とみなすのに対して、前者が正義の根本を一人ひとりの個人の尊厳を守ることにおく、というものであり、たしかに対極的な正義、更には道徳理解に立っているが、どちらもそこで具体的な個人への生き方の指針、社会的制度構想を提示するときには、個人の内面には立ち入ることなく、その行為、行動の仕方に指示を出すにとどめる。具体的に言えば「よい行い」「正しいふるまい」を指示するにとどめて「人としての正しいあり方」には極力立ち入ろうとしない。道徳的評価の対象は、あくまでも行為、個別の行為やその仕方であって、行為の主体である人間の性質、人となり存在のありようそのものではない。

 しかしながら現代においても、我々の道徳的な言葉遣いにおいて「よい行い」「悪事」という表現だけではなく、「善人」「立派な人」「悪人」「下衆」といった表現もごく普通のものであり、行為だけではなく、個人の性質、人となりもまた我々は普通に道徳的評価の対象としている。アリストテレス、トマスが体現するようなオーソドックスな倫理学の基本的な考え方とは、このように「人となり」をこそ道徳的評価の基本的な対象となし、正しい行為の指針の提供より、こうした「人となり」の涵養をこそ倫理学の主題とする。ここでいう「人となり」は伝統的には徳、ギリシア語でarete、ラテン語でvirtusと呼ばれているのであるが、このような徳倫理学こそが西洋の倫理学の正統であり、カント的な流れにせよ功利主義にせよ、そうした正統からの逸脱である――という考え方が、20世紀末以降有力となってきている。

 このような徳倫理学が、近代においていったん衰退したことには理由がある――「人となり」「人格」を丸ごと格付けし評価することを認める、というよりそれをこそ道徳的判断の中心とする徳倫理学は、差別を容認し正当化する論理へと転じかねないからだ。それに対して個人の人格の尊厳を絶対化するカントの発想は、人間同士の平等を、ある尺度で測ってそれでもって「等しい」とすることによってではなく、一人ひとりのかけがえのなさゆえに、あらゆる比較を拒絶することによって逆説的に「比べようもないから等しいと扱うしかない」という形で基礎づけようとするものである。それは古典的な徳倫理学の考え方とは鋭く対立する。

 このような対立は、規範倫理学のより具体的な現場での実践的適用を目指す応用倫理学においても無縁ではない。具体的には、生命医療倫理学をはじめとする先端科学技術の倫理学においては、伝統的な専門職集団の職能倫理(医療の場合の「ヒポクラテスの誓い」に象徴されるような、専門家の職能への誇りに支えられた集団的自己規制)の限界が強く意識された。先端科学技術の展開をもっぱら専門家に任せ、その社会的コントロールもその自己規制にゆだねることは、非専門家の方が圧倒的多数を占める社会にとって危険であるのみならずアンフェアであり、医療における「インフォームド・コンセント」のように、専門家と非専門家との間の、同じ市民社会の成員、同胞としての対等性を確保する仕組みを作らなければならない、というのが現代的な応用倫理学の立場であり、カント主義や功利主義の議論はそれを基礎づけようとした。

 しかしながら先端技術の現場においては、いかなる努力をもっても対等化できない圧倒的な非対称性がしばしば顔を出す――というより、人間社会の根底にはそのような非対称性が存在し、先端科学技術の応用の現場において容赦のない形で露出する。生命医療技術の現場における胎児や、地球環境問題や福祉国家財政の持続可能性の際に論じられる、いまだ生まれない将来世代のように、圧倒的に受動的であるしかない存在、自らの権利を決して自ら主張しえない存在(将来世代はそもそも「存在」だろうか?)の尊厳を、どうやって尊重すればよいというのだろうか? 

 このような圧倒的な非対称性の露出への問題意識が、近代的な倫理学の限界を意識させ、危険を承知の上で徳倫理学的な発想を召喚しようとすることへとつながっているのである。

 

*参考文献

稲葉振一郎『社会倫理学講義』有斐閣より2021年3月刊行予定

 

社会倫理学講義

社会倫理学講義

 

 

お買いもの

 

 

 

現実性の問題 (単行本)

現実性の問題 (単行本)

 

 

 

 

 

 

 

 

いただきもの

 

闇の自己啓発

闇の自己啓発

 

 

 拙著を取り上げていただいています。

 

  

ナウシカ解読 増補版

ナウシカ解読 増補版

 

 

いただきもの

 

AIの倫理学

AIの倫理学

 

 

 

 

近刊予告

来年度新学期に合わせて刊行予定の書下ろし教科書『社会倫理学講義(仮)』(有斐閣)より初校段階で挿入した戦争論についての節を先行公開します。

 

===================

 

第9回 政治哲学 補足

5 現代戦争論

 

 政治哲学を論じたついでに、現代の倫理学・政治哲学においては戦争、武力行使はどのように論じられうるか、考えてみよう。

 

・無差別戦争観から戦争違法化論へ

 リベラリズムの政治哲学を前提とした場合には、先にグローバルガバナンス論においてもカント的な独立国家の世界連邦構想と、リベラルな世界帝国構想とでもいうべき両極が考えられるとしたが、そこでの戦争論においても必ずしもこの両極にきれいに対応するわけではないが、やはり一見互いに対極的な二つの戦争観を導き出すことができる、と私は考える。

 ひとつは、これはもう過去のものとなった無差別戦争観であり、近代主権国家は原則的には自由に戦争を行う権利があり、戦争状態に入った交戦国は国際法の下では平等に扱われ、どちらが正しいとか間違っているとかいった差別はつけられない、とするものである。どうしてこれが「リベラル」と言いうるかと言えば、第一に戦争の主体としての諸国家が権利上平等に、無差別に扱われているからであり、第二に、いわばその前提として、正当な暴力行使としての戦争の権利が主権国家のみに認められ、それ以外のいかなる主体にも、いかなる団体、そしていかなる個人にも認められてはいない、ということである。この無差別戦争観は、いわゆるウェストファリア体制以降、近代主権国家を主体とする国際秩序の確立に合わせて成立し、キリスト教ヨーロッパ世界において伝統的だった差別戦争観、正戦論――正当な戦争と不当な戦争の区別というものが存在する、という考え方にとって代わっていった、とされる。そして第三に、上記の第二の論点の系論とも言えるが、戦争に際して正当な武力行使の対象となりうるのは原則的には国家の機関として武力を行使する個人/組織、つまりは軍――軍人と軍事施設のみである、という軍民の区別(民間人は非武装武力行使の主体ではないから、武力行使の対象とされるべきでなない)。

 それに対して20世紀以降、象徴的に論及されるのはハーグ陸戦協定であり、また考えようによっては日本国憲法の第九条にも通底している現代の戦争観、戦争規範はおおざっぱに言えば戦争違法化論である。これは、原則的に戦争は国際法上の違法行為であり、このような違法な戦争に対する自衛権の行使、そして議論の余地はあるが、このような自衛権の行使に対する国家間同盟による支援としての集団安全保障の枠組みによる武力行使が、例外的に正当化される、という考え方である。初期近代における無差別戦争観とは一見大いに異なっており、ある意味で自衛戦争を正当化するという意味では新たな正戦論であるという解釈の余地もあるが、これもまた基本的にはリベラルな政治哲学の枠内にあると言いうるというのは、やはり先と同様、ここでの諸国家は平等に扱われ、かつ国家のみが正当に暴力を行使しうる主体であり、かつ文民武力行使の対象とされてはならない、とされているからである。

 カント的な世界連邦構想というものは、無差別戦争観が支配する世界から出発して、諸国家が合理的な主体であれば、戦争違法化論にたどり着き、それを実効化する枠組みとしての世界連邦の結成にたどり着くはずだ、という考え方に則っていると言える。カントは各国家が共和政、民主主義を採用することによって国家はこのような合理性に到達する、と考えた。これは単純な性善説ではなく、大局的に見れば戦争は国民に不利益をもたらす現象であり、国家が民意を反映するようになれば、戦争に訴える確率は下がる、という推論に立脚していた。このようなカントの考え方の現代的な継承者が、現代国際政治学におけるいわゆるデモクラティック・ピース(民主的平和)論であり、統計的に民主国家間の戦争の頻度は、それ以外のケース(民主国家対非民主国家、あるいは非民主国家同士の戦争)に比べて有意に低い、と主張する。これについては、民主国家の好戦性が低いわけでは必ずしもない、との批判もあり、より正確に言えば豊かな民主国家同士の「リベラル・デモクラティック・ピース」論である、とも言われている。

 またこのような展開を促したのは20世紀、ことに第一次世界大戦以降の戦争の「総力戦」化である。動力革命以前の戦争は季節的現象であり、「三十年戦争」「百年戦争」といった長期に渡る戦争においても戦闘自体は間歇的で、人や馬匹の糧食が尽きる冬場には自然休戦となるのが普通だったし、陸上での兵員の移動速度は徒歩のそれを超えることもなく、作戦範囲はそれに拘束された。しかし蒸気機関以降の軍艦、兵員を大量輸送する鉄道の出現によって、南北戦争クリミア戦争あたりから戦争の様相は様変わりしてきた。そして第一次大戦には内燃機関を備えた戦闘車両、なかんずく戦車、そして航空機が出現し、兵員が携行する小火器にも機関銃という桁外れの殺傷力と引き換えに膨大な弾薬を消費するものが現れる。このような軍備の機械化の進行は、自然休戦をなくし、戦闘自体を長期化させ、さらに燃料・弾薬を大量消費するために戦争の遂行を備蓄のみで行うことを不可能とし、後方の市民社会での文民の生産活動をも、戦争遂行のために統制し、動員する必要が生じた。それゆえに戦闘においても、軍のみならず後方の文民が担う生産拠点を攻撃対象とすることが合理的となり、折からの航空機の実用化とともに「戦略爆撃」という仕組みが導入された。かくして20世紀の総力戦は、先の第三点、軍民の区別、戦場と後方の区別を無意味化していく。このような状況もまた、リベラルな政治哲学が戦争違法化論に傾くのを後押ししたと言えよう。

 

・「非対称戦争」

 しかしながらこのような現代的な戦争違法化論、それが克服したはずの無差別戦争観を共に根拠づけているリベラルな「国家のみが正当な暴力行使(戦争行為)の主体である」という前提を揺るがす動きが、20世紀末以降顕著となってきている。

 第一に、20世紀末以降、ことに冷戦終焉後の国際社会においては、典型的な戦争、武力紛争の形態は、国家間の戦争――かつての無差別戦争観においては正当、とは言わないまでも合法であったし、戦争違法化論においても、国家による自衛権の行使は合法でありえたし、何より合法か否か、正当化否かは別として「典型」とされていた国家間の武力衝突ではなく、国家以外の主体による武力行使、非国家組織間の武力衝突、そして非国家組織とその活動地域の主権を主張する国家、更には諸国家からなる国際組織の衝突であった。

 古典的な枠組みで言えば、これは主権(無差別戦争観においてはそこに交戦権が含まれ、戦争違法化論の下でも自衛権が含まれる)を備えた国家以外の主体による暴力、武力行使であるから、国際法よりその地域を管轄する主権国家の国内法レベルの不法行為、犯罪を構成するものである。古典的にはテロリズムと呼ばれるが、それは軍事というよりも警察、国内治安の問題であったはずだった。しかし現実問題として冷戦の終焉後、主として国家主権が不安定な途上国地域において、警察レベルでは対応できない武力紛争が多発し、更にはその影響は先進諸国にも波及するようになった。象徴的であったのは2001年9月11日のアメリカ合衆国に対するイスラム武装勢力アル=カイーダによる大規模テロ行為であり、単純に考えればいかに大規模ではあれ「犯罪」に過ぎなかった事件が、テロ主体を組織的にバックアップしていると目された国家に対する、アメリカを中心とする同盟による戦争を帰結することになってしまった。

 このような、冷戦後に顕著となった、国家間戦争以外の武力紛争をしばしば「低強度紛争Low Intensity Conflict」「非対称戦争」と呼ぶが、「テロとの戦い」を典型とするこのタイプの「新しい戦争」の意義は決して小さくない。それは多くの場合、主権国家がうまく機能せず、管轄地域内での武力を独占できず、法執行ができない「破綻国家」において国家と非政府武装勢力、あるいは武装勢力同士の衝突となって現れるが、それは国内レベルでは合法的な戦争と非合法の犯罪、テロリズムとの境界線自体を揺るがし、更にしばしば国境を超えて展開することによって、一国レベルではなく国際秩序そのものへの挑戦ともなっている。911後のアメリカ主導の「テロとの戦い」はそれへの過剰反応とも言えよう。それだけではない。こうした低強度紛争が、主権が安定した先進諸国や全体としての国際社会にとっての直接の脅威とはならない場合でも、これを単なる「犯罪」「国内問題」として、伝統的な主権の尊重、内政不干渉の原則に則って、発生地域を管轄する国家にそれへの対処を委ねていてはならない、という発想が強まっている。すなわち「人道的介入」である。単に貧困であるのみならず破綻国家のもとにある(そもそも国家破綻が貧困の最大の原因であることが通例である)地域の民衆に対する援助は、武力行使を担保した形でしか行えず、管轄する国家が地域の暴力を制圧できない場合には、外部からの援助主体がその任を代替するべきである、というわけだ。この発想はリベラルな世界帝国という理念からの自然の帰結であるが、実は「テロとの戦い」との距離はそう遠くはない。「低強度紛争」「テロとの戦い」「人道的介入」の世界においては、リベラルな政治哲学が前提としていたはずの、「戦争主体の国家への限定」「軍民の区別」「戦場と市民社会の区別」が揺るがされていくからだ。これをリベラリズムのもとに抑え込むには、リベラルな世界帝国の樹立によって、あらゆる武力行使を違法行為、犯罪か世界政府によるその鎮圧か、のどちらかに区分する以外にはないように思われる。

 

・ハイブリッド戦争

 しかし21世紀の現在、戦争を巡る状況は新たな局面に突入しつつある。すなわち、「ハイブリッド戦争Hybrid War」である。上述の低強度紛争を焦点とする議論においては、「戦争主体の国家への限定」「軍民の区別」「戦場と市民社会の区別」を崩していく主体はテロリストと呼ばれる側、非国家的勢力の側であり、主権国家とそれらが主体の国際社会の方は、これらの区別、リベラルな前提を保守する側に回るものとして図式化されていた。しかしながら2014年のクリミア危機、ロシアによるクリミアの併合は、れっきとした主権国家、国連安全保障理事会理事国たるロシアによって、この区別が大胆に蹂躙された。主権国家が、公然たる正規軍のみならず、秘密裏に援助した非正規非公然の武装勢力をも動員し、サイバー攻撃も併用して目標の軍事インフラを無力化、地域を孤立させた。そして文民の政治家・官僚や民間の経済主体にも働き掛け、更にはマスメディアやインターネットをも駆使した情報操作を内外に展開して、決して破綻国家ではなかった他国の管轄下の地域を、住民投票を経て「平和的」「合法的」に自国に併合したのである。

 世界大戦、そして冷戦下においても、各国は情報機関を主体に、単なる情報収集にとどまらない、非合法な工作を他国に仕掛けていた――その中には内戦、クーデター使嗾や要人暗殺など、「テロリズム」の範疇に入れられるべきものも含まれていたが、あくまでもそれらは非公然、非合法の活動であり、少なくとも水面下で行われていた。しかしながらクリミア危機があからさまにしたのは、こうした謀略工作と正規の軍事行動、外交が連続的にシステマティックに、しかも事実上公然と行われるようになった、という新事態である。

 これが20世紀の総力戦とどこが異なるのか? 「総力戦」という概念には後ろめたさや批判性がつきまとう。すなわち総力戦体制は、近代国家と市民社会の本来のあり方を歪めるものであり、望ましくはない、と批判されることが多い。そもそも総力戦自体、核兵器の時代においては起こしてはならないものであり、核兵器を伴う総力戦体制は、戦争の遂行のためにではなく、戦争の抑止のためにこそかろうじて正当化されるのだ、と。これに対してハイブリッド戦争においては、何のてらいもなく、情報操作、プロパガンダ、経済的浸透といった間接的な影響力行使からサイバー攻撃、小規模テロリズム、通常戦力による打撃といったより直接的な武力行使までがシームレスにシステマティックに捉えられ、その担い手も狭義の軍にとどまることなく、官民に渡ってあらゆるものが動員される。このようにてらいのない総力戦の肯定としてのハイブリッド戦争のアイディアの嚆矢は、1999年の中国人民解放軍の喬良・王湘穂の著書『超限戦』とも、あるいはより具体的にはロシア連邦軍参謀総長ヴァレリー・ゲラシモフの2013年の論文とも言われるが、いずれにせよ「法の支配」「主権を拘束する憲法」「国家主権にも犯し得ない人権」といったリベラルな原理を重視しない体制のもとでは、このようなハイブリッド戦争を批判する理論が登場することは期待できない。問題はこのようなハイブリッド戦争を躊躇なく仕掛けてくる政治勢力に対して、リベラルな原理を尊重する側はどう対抗しうるのか、である。

 

読書案内 補足

戦争の倫理学についてスタンダードな教科書として、松元『平和とは何か』他、

眞嶋俊造『正しい戦争はあるのか? 戦争倫理学入門』(2016年、大隅書店) 

正しい戦争はあるのか?: 戦争倫理学入門

正しい戦争はあるのか?: 戦争倫理学入門

 

 

 戦争違法化論にいたる戦争法の歴史については国際法の教科書を参照していただきたいが、初学者向けのものとしては

大沼保昭国際法』(2018年、ちくま新書

国際法 (ちくま新書)

国際法 (ちくま新書)

 

 

 デモクラティック・ピース論については原典の翻訳、

ブルース・ラセット『パクス・デモクラティア』(1996年、東京大学出版会) 

 

 どちらかと言うと「リベラル・デモクラティック・ピース」では、という議論は

アザー・ガット『文明と戦争』(2012年、中央公論新社) 

文明と戦争 (上)

文明と戦争 (上)

 

 

 

文明と戦争 (下)

文明と戦争 (下)

 

 

 非対称戦争については

加藤朗『現代戦争論ポストモダンの紛争LIC』(1993年、中公新書

 

マーチン・ファン・クレフェルト『戦争の変遷』(2011年、原書房) 

戦争の変遷

戦争の変遷

 

 

人道的介入については

ピーター・シンガー『グローバリゼーションの倫理学』(2005年、昭和堂) 

グローバリゼーションの倫理学

グローバリゼーションの倫理学

 

 

において功利主義的立場からの正当化論が提示されている。

 ハイブリッド戦争については

喬良・王湘穂『超限戦 21世紀の「新しい戦争」』(2020年、角川新書) 

 

渡部悦和・佐々木孝博『現代戦争論―超「超限戦」 これが21世紀の戦いだ』 (2020年、ワニブックスPLUS新書) 

 

お買いもの

 

  めちゃくちゃ面白いので原論文も探して読んでいる。

 あとがきで山形浩生がとんでもないドジを踏んでサポートサイトで訂正している。