読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

宇宙倫理本出だし草稿(応用哲学会サマースクールの感想を兼ねて)

 刊行につきましては京都の某書肆と口約束を交わしております。


===========================


 現在、宇宙開発関係者の一部からは、哲学・倫理学サイドからの宇宙開発へのアプローチに対して、ある種の期待が寄せられているように思われる。
 近年日本の宇宙政策においては、2008年の宇宙基本法の制定に見られる如く、非常にはっきりした態度変更がなされている。
 従来日本の宇宙開発は旧宇宙開発事業団NASDA)と宇宙科学研究所→現日本航空宇宙研究機構(JAXA)の主導の下、官学セクターを軸とした学術研究を中心としており、そこに放送通信、気象観測、資源・環境探査といった目的に沿う限りでの民間商業事業者の参入がなされる、といった形で行われていた。即ち、かつての米ソ(のちに露)二大巨頭を典型とする世界の宇宙開発において顕著だった、宇宙の安全保障目的での利用、軍事的利用が法的に禁じられており、日本の軍事セクター(防衛庁防衛省自衛隊)自身からも宇宙利用への積極的な関心は寄せられなかった。しかしながら新しい宇宙基本法によって、平和利用の原則の下での宇宙の安全保障目的での利用は日本においても解禁され、防衛省自身も遅まきながら宇宙安全保障についての検討に着手しつつある。
 これは長期的に見れば大きな意義を持つ政策変更であり、その観点からの人文社会科学的な学術研究への要請もまた大きなものがある。実際、JAXAの大学連携プロジェクトの一つ、東京大学公共政策大学院との共同研究「宇宙政策プロジェクト」においては、宇宙の産業化、商業利用のための法的基盤整理と並んで、宇宙における安全保障が焦点をなすイシューとなっている。
 しかしこれに対して京都大学との連携プロジェクト「宇宙総合学研究ユニット」においてはやや様相を異にしている。東大が公共政策大学院、つまり法学、政治学、経済学が中心である(ロケットや宇宙機の研究については、工学系の研究室単位での連携は従来から存在する)のに対して、こちらはほとんどの学部が参加する「文理融合」的プロジェクトである。更に応用よりは基礎、実践よりは理念に重点が置かれ、人類学、宗教学、哲学などの人文科学のウェイトが極めて強い。
 更に開催される研究会・イベントなどから伺われるのは、有人宇宙飛行に対する強い関心である。東大「宇宙政策プロジェクト」での研究会などにおいてはほとんど取り扱われない、有人での宇宙プロジェクトに関する報告が、しかもどちらかといえば大学サイドの研究者からよりも、JAXAサイド、宇宙開発プロパーから、頻々と出されている。
 後にもみるように、現状の宇宙開発・利用において、有人宇宙飛行はどちらかというとマイナーなテーマである。商用軍用を通じて、実用的な宇宙利用を担うシステムはもっぱら無人衛星であるし、火星や小惑星、将来的には木星の衛星や彗星など深宇宙を目指す先端的学術探査においても、主役は精妙に工夫された無人ロボット探査機である。
 周知のとおり、有人宇宙飛行の黄金時代はガガーリンからアポロ11号の月着陸までの60年代、最初期のパイオニアたちの英雄時代であり、70年代以降未知のフロンティアの探査の主役は急激に無人探査機に移行した。繰り返し利用による経済的なシステムとの触れ込みで莫大な予算を投じたスペースシャトルも、二度の大事故により人命という最も高価な資源を浪費するシステムとして博物館に送られたことは記憶に新しい。オバマ政権の米国で新たに提唱された火星有人飛行計画(オライオン)も、リーマンショック後の財政危機の中、宙づりになったままである。
 やや邪推するならば、JAXA内の有人宇宙プロジェクト推進派のグループが、側面援護を欲してはたらきかけているのが京大の「ユニット」であり、とりわけそこで哲学・倫理学への期待が寄せられているのだとしたら、それは宇宙開発、とりわけ有人宇宙飛行に対する理念的正当化の提供なのではないか、とさえ思われてしまう。
 ここで普通の哲学者・倫理学者ならば「そういうのは哲学の仕事ではありませんから」ととりあえずはおさとしするべきなのであろう。実際、自分の受け持ちの学生たちに対してならば、教師としての哲学者・倫理学者はまずはそういうはずだ。「あらかじめ決められた結論を正当化すべく屁理屈をこねまわすのは、学問ではありません。そして哲学もまた学問ですから」と。
 しかしながら哲学者を含めて学者の顧客のすべてが学生――つまり入門者であるわけではない。結論に至るためのスキルを身に着けるのが目的なのではなく、手っ取り早く結論だけを求める顧客もまた、学問にとっては大事なお客様だ。科学的知見の技術的、政策的応用というのはそういうものだ。そしてここで有人宇宙ミッション推進派のニーズが「あらかじめ決まった結論を正当化してくれ、というのではありません。結論として有人宇宙飛行が思想的に正当化できるのかどうか自体を知りたいのです。もちろん、正当化できることを望んではいますが」というのであれば、先の木で鼻をくくったような答えでは不十分だろう。
 もちろんここでさらに意地悪を重ねて、「科学一般の場合には結論それ自体を天下り的に与えられることも素人にとっては有意味かもしれませんが、科学を含めた一切の知的活動の批判的吟味を主題とする哲学においては、そもそもそういう風に天下り的に与えられる「結論」などありません。哲学においては、入門する気のない素人でさえもまた「自分で考える」ことを求められるのです」と切り返すことだってできる。しかしながらそんな風に続けていたら「哲学者というのは延々と手続きや心構えに拘泥して、問題そのものの本丸、事柄そのものに突っ込んでいく気概のない奴だ」などと見損なわれてしまいそうだ。どうして哲学者が、「結論」そのものを天下り的に提示することにかくも消極的なのか、もう少し具体的な理由を提示した方がよいだろう。


 ここで問題になっているのは哲学一般というよりは道徳哲学、哲学的倫理学であるから、それにひきつけた話をしよう。あとでより詳しく論じるが、近代――とは何かが近年ではむしろ議論の種なのであるがそれはさておき――の倫理学の基調をなしているのは、広い意味でのリベラリズム――自由主義である。
 リベラリズムは、人間的な生――日常的な「生活」も長期的な「人生」もひっくるめて(英語ではどちらもlife)――に私的な側面と公的な側面の二つがあることを認める。その上で、そもそも人間は本来的に、私的な生――「私生活」、私人としての人生――を公的な生――開かれた領域としての市民社会の中での、社会人=市民=公民としての生活、ことによったら公人としての政治活動――よりも優先するものである、とリベラリズムにおいては考える。それどころか、そもそも公的な生において人々が追求するべき公共的な価値の核心は、人々がそれぞれに私人として追求する多種多様な私的価値のできる限りの共存共栄を目指すことにこそあって、私的価値と対立しそれに優先するような何かがそこにあるわけではない、とさえ考える。
 平たく言えばリベラリズムは、人間本来の生き方というものが事実として人によってバラバラで多種多様であるだけではなく、その中でもとりわけ価値の高い、いわば本来あるべき「正しい生き方」などというものは存在しない、とするわけである。
 このようなタイプの道徳思想は、歴史的に見て比較的新しい、ある意味特殊なものだと考えた方がよい。リベラリズムを生んだ西洋(大ざっぱに言って、古典古代のギリシア・ローマと、ユダヤ・キリスト教の伝統を引き継ぐ文明、くらいにしておこう)を含めて、人類史的により普通の発想は、公的な生に比べて私的な生は価値的に劣り、その上で、共同体において人々に共有された、人間として理想的なあるべき(公的側面に重点を置いた)生き方、そこにおいて追求されるべき(基本的には公的な)価値というものがある、という発想である。非常に大ざっぱに言えば近代リベラリズムは、このように価値観をある程度共有した共同体がそれぞれ孤立して存続できなくなった社会、互いに価値観をあまり共有しない人々が平和に共存できる社会のための思想である。


 このようなリベラリズムの立場をとる道徳哲学者が「宇宙開発、とりわけ有人宇宙ミッションを道徳的に正当化することはどこまで可能か?」と問われたとしたら、いかに答えるだろうか?
 差し当たりまず思いつくのは「公的事業としてではなく、関係者が自発的に、自己の責任(費用負担、リスク負担等々)において、無関係の他人に危害を与えることなくなされる宇宙開発には、まったく何の問題もない」という回答である。しかしながら現状の日本において、のみならず世界のほとんどの国において、宇宙開発事業の主体は今なお国家の管轄下にある公的セクターなのである(NASAJAXAなど国家的・国際的宇宙機関は言うに及ばず、大学や民間研究機関にも、公的研究助成が投入されていれば同様である)から、この回答は関係者を十分に満足させることはないだろう。つまり「納税者、無関係の一般市民に対して、少なからぬ負担(租税のみならず、宇宙開発に伴う公的規制が民間活動に及ぼすかもしれない制約も含む)やリスク(事故、環境汚染等)を与える以上、宇宙開発当事者の私的な欲望だけではミッションの正当化には不十分である。彼ら彼女らを納得させるだけの理屈がほしい」と反問されることは必定である。しかしながらリベラリズムの下では、ほとんどの市民が共有する公的価値は、存在しないわけではないがその余地は狭い。繰り返すが「私的価値の多様性それ自体の維持、奨励」を超える公的価値は、リベラリズムの枠内ではほとんど見出しがたい。
 財産権制度や市場メカニズムの限界のせいで、私的な経済活動によってはうまく実現できない利益――財産権や市場がうまく機能するための前提そのものである「法と秩序」の維持が典型――をまさに「公益」として国家などの公的機関にその実現が託されることは多い。経済学的に言えば「公共財」であり、通信放送、安全保障や学術研究にもそうした性格は濃厚である、とはしばしばいわれる。しかしながら現状を見る限り、商用ニーズの大きい通信放送は言うに及ばず、安全保障目的や学術目的においても、無人宇宙システムで十分、との判断が下されているがゆえの今日である。有人宇宙飛行の公的事業としての正当化は、それゆえ、新しい公的な価値の提唱と、それに向けて人々を誘惑すること、に他ならない。だがいうまでもなく、私的な価値の追求の尊さを逆説的にもその公的価値の軸心に置くリベラリズムの立場からは、そうした作業それ自体が否定の対象――とは言わないまでも、厳しい批判的吟味の対象とされざるを得ない。やや大げさに言えば、リベラリズムからすれば「新しい公的価値の提唱」という営為自体が、極めて危険な、詐欺的、場合によっては暴力的な性質を持つ、近代社会への敵対行為である可能性を秘めていることになるのである。


 このように見て来るならば、「有人宇宙ミッションの理念的正当化」という作業に対して、今日の哲学・倫理学サイドからの貢献の余地はほとんどない、ということになりかねない。しかしながらもちろん、事はそう簡単ではない。
 第一に、哲学的倫理学におけるリベラリズムの地位は、支配的ではあるが圧倒的というわけではない。古典的な、共同性を重視するタイプの倫理学もまた健在であり、今日ではむしろ影響力を再び強めている。こうした立場から「新しい公的価値の提唱」への挑戦がなされ、そこにおいて有人宇宙ミッションが何ほどかの意義付けを与えられる可能性は絶無ではない。
 第二に、リベラリズムが頭から有人宇宙ミッションそれ自体に対して否定的なわけでもない。あくまでも、公的な事業としてのその意義について懐疑的なだけである。民間主導の私的な活動、あるいは公的助成を受けた学術研究の中の一端としてのそれに対しては、批判的である理由はそれほどない。そうした、民間宇宙活動のすそ野が広がることの意義、についてであれば、リベラリズムからもまた積極的に何事かを言いうるかもしれない。
 第三に、仮に有人宇宙ミッションに対する哲学的吟味が、徹頭徹尾批判的、懐疑的、あるいはいっそ否定的なものであったとしても、それが有人宇宙ミッション、より広く宇宙開発そのものに対して敵対的なものと言えるかどうかは、また別の問題である。直接的な政策決定のための討論の場においてならともかく、そのはるか手前の学術的な議論の場においては、そうした「仮想論敵」「悪魔の代弁者」として哲学・倫理学が宇宙開発関係者の前に立ちふさがることは、恰好の予行演習として活用していただけるであろう。


 ところで、まったく反対に、宇宙開発、有人宇宙飛行について考えることが、哲学・倫理学にとってどのような意義を持ちうるのか? 正直に言うならば「哲学・倫理学が宇宙開発に対してなしうる寄与」よりは、「宇宙開発が哲学・倫理学に対してなしうる寄与」の方がさしあたりは大きいのではないか。それは「宇宙倫理学」に対して興味を持ってくださる宇宙開発関係者の本意ではないかもしれないが、宇宙開発プロパーの外にいる(圧倒的多数の)哲学者・倫理学者もまた納税者、一般市民の一部である以上、ひょっとしたらそこに、宇宙開発関係者自身が思いもかけなかった「宇宙開発の公益への貢献」の可能性を見出していただけるかもしれない。
 本論考は、宇宙開発、有人宇宙ミッションそのものに対する貢献を(あらかじめ)意図しているものではない。当方の勝手な関心にしたがって、中長期の未来における持続的な有人宇宙ミッション――仮に本論考では「宇宙植民」と呼ぶ――を中心に、ありうべき未来の「宇宙倫理学」のための一つのたたき台を提供するものである。私見では、宇宙開発、更に有人宇宙ミッションという課題は、少なくとも理論的には、応用倫理学全般、更には哲学に対して、極めて興味深い対象でありうる。それは行論のうちにおのずから明らかとなるであろう。