おもいつきでしゃべったこと

 大したことではない(別段独創的ではないし文献学的には間違いも含んでいるだろう)が一応メモ。
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 17世紀あたりを近代社会科学の出発点とし、トマス・ホッブズジョン・ロックで代表させるのは、彼らが「自然状態」という理論装置を用いているからである。彼らは神様を信じてはいるが、神様の仕事は天地創造、そして人間を今あるような存在として創造したところで終わっていて、あとは介入せず(奇蹟は起こさず)、社会の構築は人間に任されている、という形に議論がなっている。これはちょうどアイザック・ニュートンが神様の仕事を自然法則を作るまでで終わらせていることに対応する。
 しかしホッブズやロックよりも、ベネディクト・スピノザの方が更に吹っ切れた近代性を感じさせることは言うまでもない。はっきりと民主政を支持しなかったホッブズ、ロックと比べて明確に民主政を最優位に置いたあたりもそうだが、もっときっぱりしているのは形而上学、神学のレベルである。スピノザは世界、宇宙そのものとは区別されるものとしての神の存在を否定し、神イコール宇宙そのものとした。
 やや偏ったまとめをしてしまうならこれは、創造以外の奇蹟の存在を否定し、たった一つの世界が不変の法則によって支配されているというなら、神の存在を想定することは世界理解にとって不要なのであり、不要であるならないと考えてもいいのではないか? ということである。
 もともとユダヤ・キリスト・イスラーム一神教にしてからが、「世界の中に神が存在するなら、そんな神は世界を作った神に比べれば神と呼ぶに足りないのではないか?」といった思弁の果てに「世界が一つであるならばそれを作り支配した神も一つであると考えなければならない」という結論に至ったのであろう。とすればそこからスピノザ的汎神論ないし無神論へは理論的にはあと一歩である。「世界を作ったのは神、では神と世界をひっくるめたメタ世界を作ったのは?」という無限背進を退けるにはそれが一番だ。
 にもかかわらずこうした発想が人々にとって受け入れがたかったのは、それが神を非人格化した、神から心を奪ったというところにある。信仰ある人々にとって神は対話可能な他者であってくれなければ困る。そしてまた当然に、自由意志を持っていてもらわなければ困るでのある。このような人格的存在としての神なくしては、世界内の法則的存在にすぎない人間の自由意志もまた、どこかに吹き飛んでしまうように、人々には思われた。神に自由意志がなければ、人間どころかこの世界のどこにも自由意志などはないことになるだろう。
 ゴットフリート・ライプニッツの可能世界論だの弁神論だのは、こうしたスピノザとの対決として理解できる側面があるだろう。神は自由だからこそ、この世界の他にも多数の世界を創造しえた(し実際想像しているのかもしれない)のである、と考えれば、わかりやすい形で神の自由意志が肯定できる――ただし世界の複数性の要請という代価を払って。またその場合、神が他のようにも世界を作りえたのであれば、なぜこの世界には容認しがたい邪悪や悲惨が存在するのか、全知全能かつ善なる神がどうしてそのようなものを作ったのか、という問いかけは、かつても存在したであろうがより先鋭となる。

*参考

宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神

宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神

 悪い意味ではなく一般書として大変良くできている。ぼくと違って専門的に哲学をきちんと勉強した人ならではの通俗書。