「労使関係論」とは何だったのか(12)

 時論的な文脈に引き付けて言うならば、おおむね80年代一杯までは氏原―小池的な日本労働市場・雇用慣行理解は広く共有され、政治的な意味での左右のスタンスを問わず事実認識として受容されていた。「福祉国家」に引き続く東京大学社会科学研究所(当時は山本潔も勤務していた)の共同研究「現代日本社会」は、小池和男をもまたメンバーの一人として迎えて行われたが、そこでの基軸概念は「会社主義」「企業社会」であったと言ってよい。この言葉・概念自体はさほどオリジナルなものではなく、松本厚治『企業主義の興隆』や熊沢誠の「日本的「労働社会」としての企業社会」といった先行議論によってインスパイアされたものであるが、このプロジェクトの実質的な主導者であった馬場宏二と渡辺治によって、その経済学的な基盤を小池理論に基づけることを通じて、現代日本社会を理解するためのキーコンセプトとして前面に押し出された。政治的にいえば馬場と渡辺のスタンスは、それこそ野村が小池と『参加』の書評を書いた山本について述べたように両極端である(宇野派の経済学者である馬場は日本社会主義をいわば「資本主義の枠内において本家社会主義以上に社会主義の理想を達成した」とシニカルに肯定するのに対して、渡辺は親共産党憲法学者――というより政治イデオローグである)が、両者とも事実認識の枠組としての小池理論は受容していた。
 ついでに言えば渡辺治は、親共産党系の論客としてはかなり早い時期に「会社主義」「企業社会」といったコンセプトで日本社会批判を展開し始めた存在であり、反代々木系の論者からも共感を集めつつあった。「企業社会」論は経済学的に見れば小池が代表したような「独占段階照応論」につながるものであるが、政治学的・社会学的に見ればまさにグラムシヘゲモニー論につながるものである。すなわち、日本社会における労働者階級の社会的統合が、抑圧、強権によってよりはそれなりの同意によって行われている、という議論を、マルクス主義の枠内で行おうとしたものである。従来はこうした議論は、政論としては「構造改革派」とノンセクトを含めた「新左翼」サイドからなされるものであり、共産党などの正統派旧左翼によっては「社民的敗北主義」「プチブル的偏向」として拒まれる傾向があった。


企業主義の興隆

企業主義の興隆

問題の諸相 (現代日本社会)

問題の諸相 (現代日本社会)

企業支配と国家

企業支配と国家


 ではこの「東大学派」解体後の時代に、労働問題プロパーの研究者たちは何をしていたのか? 
 70年代から80年代にかけては、いよいよもって「東大学派」の痕跡自体が消滅に向かっていた。30年代生まれで東大に常勤教員として勤務していた労働問題研究者は、社会科学研究所に戸塚秀夫、山本潔、経済学部に兵藤訢、中西洋であった。この4名は大学闘争時には若手教員として闘争をにらみつつ、日本における最も早期の新左翼についての学術研究たる『日本における「新左翼」の労働運動』(実質的に官公労の研究でもあった)をものしたが、その後は基本的にそれぞれ「我が道を往く」ことになった。氏原正治郎を中心に社会科学研究所を拠点として行われた、70年代の石油危機以降の不況下の労使関係の実態調査である『転換期における労使関係の実態』には、中西は参加していない。戸塚と兵藤を中心に、80年代のプラザ合意後の円高不況下での「産業空洞化」をテーマとした『地域社会と労働組合』にも中西は参加しておらず、山本は参加したものの報告書は単著論文としてものしており、山本の班の成果は公刊された上記の最終報告書には収録されていない。
 また80年代には戸塚と兵藤の主導で、日産とトヨタを対象にした本格的な調査が行われる(報告書は『労使関係の転換と選択』)が、ここには『転換期』において日産を調査した班長の山本は加わっていない。『転換期』調査――更にその成果は山本の単著『自動車産業の労資関係』、嵯峨一郎『企業と労働組合』を生んでいる――は「表門」からの調査と同時に「裏門」にも強く依存しており、「裏門」からの非公開文書や秘密情報を駆使している。その結果日産との信頼関係は完全に損なわれたようである。この調査の中軸となったのは50年代前後の中堅研究者たちであり、後に上井喜彦『労働組合の職場規制』と野村正實『トヨティズム』が生まれることとなる。


地域社会と労働組合―「産業空洞化」と地域戦略の模索

地域社会と労働組合―「産業空洞化」と地域戦略の模索

労使関係の転換と選択―日本の自動車産業

労使関係の転換と選択―日本の自動車産業

自動車産業の労資関係 (1981年)

自動車産業の労資関係 (1981年)

企業と労働組合―日産自動車労使論 (1984年)

企業と労働組合―日産自動車労使論 (1984年)


 他方で氏原は、この時期に東京大学を定年退官し、活動拠点を労働省外郭団体である雇用促進事業団雇用職業総合研究所(後の日本労働研究機構研究所、現労働政策研究・研修機構研究所)に移す。氏原の門下生で戸塚や小池らと世代を同じくする高梨昌は、この時期には労働省や中労委を含めて日本の労働政策の中枢に深く入り込んでおり、どちらかというと左翼か、あるいは純粋アカデミズムを志向していた(もっとも戸塚にせよ兵藤にせよ、ことに総評系の労働運動との間に太いパイプを持っていたし、ある時期以降オルタナティブ系への関心も強めるが。しかし総じて彼らには一種のバランス感覚があったのか、同盟系労働運動や財界ともあからさまに敵対することはなかった。そもそも労使のどちらかに偏ってコミットした場合、十分な実態調査は不可能となる)東大所属の同輩たちとは一線を画していた。(小池もまた、あからさまに労働政策にコミットすることはそれほどなかった。)氏原も早い時期から各種審議会などへの参加を通じて労働政策インサイダーとして陰に陽に影響を及ぼしていたが、本人の回想によれば勤務先の学生活動家から「信州大のラスプーチン」と揶揄されていたという高梨は、労働者派遣業法の制定施行を中心に、70年代から90年代初めにかけての日本の労働政策における最大のキーパーソンの一人である。
 この労働研究機構を拠点とする研究において高梨以外にキーパーソンを挙げるとすれば、仁田道夫、中村圭介、石田光男、ということになるだろう。仁田は『転換期』鉄鋼班に所属していた。中村は氏原のおそらく最後の直弟子であり、そのキャリアを雇用職業総合研究所からスタートさせ、一貫して現場の実態調査を手掛けている。石田は後述の戸塚のイギリス調査の鉄鋼班に所属して報告書をまとめており、後に日本の鉄鋼業の分析も手掛けている。彼らは90年代に、MITスローン・スクールの労使関係研究者トーマス・コーハンの呼びかけた国際比較研究の日本部門を組織することとなり、仁田は鉄鋼、中村はテレコム、石田は自動車のそれぞれグループリーダーとして調査を主導する。


日本の労働者参加

日本の労働者参加

日本の職場と生産システム

日本の職場と生産システム

日本のリーン生産方式―自動車企業の事例

日本のリーン生産方式―自動車企業の事例


 この時代にはこの他にも社会学系の人脈、松島静雄から岡本秀昭、更に下って稲上毅と川喜多喬佐藤博樹といった人々もまた重要である。そもそも「日本的雇用慣行」という言葉づかいの定着は、おそらくは70年代後半、ちょうど『転換期』調査と同時期に通産省産業政策局企業行動課の肝いりで松島らを中心に行われた調査の報告書『日本的雇用慣行のゆくえ』、更に労働大臣官房政策調査部の調査報告書『日本的雇用慣行の変化と展望』によると思われるが、稲上、川喜多、佐藤はいずれもこれらの調査の中核的なメンバーであった。(この他に重要なメンバーとして雇職研→機構の亀山直幸、ゼンセン同盟→連合事務局の逢見直人がいる。)彼らはこの時期以降今日に至るまで、官庁や労組、経営者団体等の委嘱による膨大な調査をハイペースでこなし続けている。彼らはまた雇職研→機構を介して仁田らとも交流が深く、後に佐藤は中村と同じく仁田の在職する東大社研に転出する。
 彼らはここでいう意味での「東大学派」つまりは氏原山脈とは出自を異にする人々である。戦後世代の稲上たちに注目するならば、稲上、川喜多は東京大学社会学教室の出身であり、佐藤は一橋大学社会学部で津田真徴の門下である。津田は氏原の薫陶を受けた「東大学派」の研究者と言えるが、「独占段階照応説」とは一線を画し、どちらかというと文化主義的な色彩がかった独自の年功的労使関係論を展開しており、70年代以降はいわゆる「日本的経営論」の主導的な論客として知られた。佐藤は津田の理論的後継者というわけではないが、経済学よりも社会学経営学寄りの発想をする研究者ではある。
 稲上は労働研究者であると同時に、ある時期まではパーソンズを中心とした社会理論・社会学説史研究者でもあり、当初はパーソンズ理論の枠組みを陽表的に用いた労使関係研究を試みていたが、早晩その試みは放棄し、理論研究も行わなくなり実態調査に沈潜していく。川喜多もまたフランス初期社会主義やフェビアン、ことにウェッブ夫妻の思想史的研究からキャリアをスタートしているが、80年代以降は完全に産業調査専業の研究者となる。若き日の彼らは政治的には「構造改革派」に近い存在であったようで、稲上は構造改革派の講座物に寄稿したりもしているが、80年代以降はいずれも実務に徹し、川喜多はむしろ偽悪的に「無思想」を標榜する。(佐藤のデビュー作もまたウェッブ研究であった。)
 ゴシップ的関心を離れて、ことに70年代から80年代にかけての彼らの研究の意義について触れておく。『転換期』調査と、更に後述する『現代労働問題』、そしてイギリス労使関係調査を主導した問題意識は、石油ショック後の先進国労使関係、そして現代資本主義の「危機」であり、それに対するオルタナティブの展望であった。戸塚の中小企業調査にもそれは反映している。他方稲上らが参加した通産省調査、そしてこの時期に並行して彼らが行ったいくつかの調査は、石油ショック後の日本企業の雇用調整にあり、ことに大量失業の長期化にもつれこんでいったヨーロッパと比較して、日本企業が配転や出向といった手法を駆使して、極力ハードな人員整理を避ける形で雇用調整をやり過ごし、長期雇用慣行を守り抜いたことを描こうとしていた。(仁田の鉄鋼業研究もこの問題意識を共有している。)そうした議論は、日本的雇用慣行・労使関係の良好なパフォーマンスを描く限りにおいては小池の議論と共鳴するが、焦点はやや異なることに注意しなければならないだろう。


日本的雇用慣行のゆくえ―労働力移動の実態調査 (1981年)

日本的雇用慣行のゆくえ―労働力移動の実態調査 (1981年)

日本的雇用慣行の変化と展望〈研究・報告編〉 (2000年の労働シリーズ)

日本的雇用慣行の変化と展望〈研究・報告編〉 (2000年の労働シリーズ)

日本的雇用慣行の変化と展望 (調査編) (2000年の労働シリーズ (3))

日本的雇用慣行の変化と展望 (調査編) (2000年の労働シリーズ (3))

転換期の労働世界

転換期の労働世界

企業グループ経営と出向転籍慣行

企業グループ経営と出向転籍慣行

産業変動と労務管理

産業変動と労務管理


 さて以上に見た限りでも、70年代初頭までは研究会で同じ机を囲み、共著をものする程度には存在していた氏原門下の連帯は、80年代にはほぼ解体していたと考えるべきであろう。ちなみに氏原は87年に没している。


 ここで比較的研究上のコラボレーションの度合が高かった、戸塚と兵藤について見てみよう。既に触れた共同研究以外にも戸塚と兵藤の共同作業は多い。戸塚はドイツ研究にシフトしていた徳永重良を共編者とし、兵藤の他何名かの研究者と共著で『現代労働問題』を制作する。これは先進諸国の20世紀労資関係についての比較研究(英・米・独・仏・伊で日本編はない)であり、職場・企業・産業レベルのみならず、国家の労働政策・労働政治のレベルまでを射程に入れたものでもあった。戸塚はここでイギリスを担当し、兵藤は補論として大内力―加藤栄一の国家独占資本主義論と労資関係論とのブリッジを試みる理論的な作業を行っている。全体として本書は20世紀労資関係を現代資本主義=国家独占資本主義論の枠組でとらえ、70年代の石油危機以降の動向、「福祉国家の危機」と労働運動の行き詰まりを、資本主義の危機として捉えようという試みになっている。
 また前期『転換期』における戸塚の調査対象は金属加工・機械工業系の中小企業における倒産反対・自主管理争議であり、この頃から戸塚は労働運動における「オルタナティブ」志向への関心を高めていく。そして70年代後半からは一大プロジェクトとして英国企業の労使関係の現地実態調査がスタートし、後に『現代イギリスの労使関係』に結実する。戸塚はここで自動車班班長として報告書を単独執筆するが、その補論として兵藤は、いわばその背景にある、サッチャー政権登場前後におけるイギリス労働政治の動向――スタグフレーション下での労働党政権の行き詰まり、労使対立のみならず、政権、労働党と労働界――ナショナルセンターたるTUC、各組合――との、そして組合と現場活動家、一般労働者との齟齬と、そこから浮上するさまざまな試み――賃上げ抑制と社会政策をパッケージ化する「社会契約」や、経営参加や自主管理を含めた「オルタナティブ」運動の台頭等――をサーベイした。


現代労働問題―労資関係の歴史的動態と構造 (有斐閣大学双書)

現代労働問題―労資関係の歴史的動態と構造 (有斐閣大学双書)

現代の労働運動 (UP選書 217)

現代の労働運動 (UP選書 217)


 同時期のイギリス労使関係の動向への注目は無論広く共有されており、思いつくだけでも栗田健『現代労使関係の構造』、熊沢誠『国家のなかの国家』、高橋克嘉『イギリス労使関係の変貌』といったいずれも読みごたえある業績が列挙できる。しかし顧みればその後サッチャー政権の成立とともにイギリスの労使関係は、これらの業績が予想あるいは期待したもの――旧来の労働政治の限界を突破した、おそらくは自主管理や協同に立脚したオルタナティブ労働運動――ではなく、旧来の労働運動に敵対的で親経営的な規制緩和新自由主義路線によって支配されることとなる。栗田編『現代イギリスの経済と労働』は早い時期におけるその展望であり、稲上毅『現代英国労働事情』『現代英国経営事情』は経過報告である。いずれにせよ保守後継メージャー政権も遠い過去となり、ブレア政権移行の「ニューレーバー」路線が定着するまで、サッチャリズムを総括しニューレーバーの可能性を展望する業績が現われることはなかった。


イギリス労使関係の変貌

イギリス労使関係の変貌

現代英国経営事情

現代英国経営事情


 以上のようにまとめてしまうと、どちらかというと左翼的な、日本労使関係、あるいは日本型企業社会に対して批判的な研究潮流が時代に取り残されて旗色が悪くなり、どちらかというと小池に近い、日本労使関係の現状に対して肯定的な潮流が、新自由主義的な風潮のもとで主流となった、という風に見えかねないが、もちろんことはそう簡単ではない。二つの路線は必ずしも排他的なものではなく、両者の差異は程度問題にすぎない。実際の研究活動は、両方の人脈にまたがってなされていることが多い。しかし何より重要なことに、90年代に日本は本格的にデフレ不況に突入し、日本的雇用慣行に対する風当たりがすさまじく強くなる。その中で小池和男ももはやトレンディーな存在ではなくなってしまう。そして労働問題研究者は総体として、いわゆる新自由主義――80年代から日本においてもなじみ深い言葉であったが、小泉政権以降は「構造改革」なるキャッチフレーズと同一視される――に対して批判的なスタンスを保ち、それに抗して日本的雇用慣行を守ろうという論陣を張ることとなる。これはある意味で社会主義崩壊以降の新旧左翼の境界線のなし崩しの融解と構造的に似通った現象である(がイコールではない――前者が後者の一部として包摂されてしまうというわけでは決してない)。


 80年代までは労働問題研究者たちは、かつての「東大学派」的な連帯感はすでに消滅していたとはいえ、日本労使関係研究は日本資本主義論・日本経済論の戦略拠点、「管制高地」であるとの自負、使命感を共有していたと言えよう。日本経済の現状に肯定的なスタンスをとる論者にとっては、日本の労使関係、労務管理、現場の人材育成や生産管理は、まさしく日本経済の「強さ」の中核をなすものであり、批判的な論者にとっては、労働者を巧妙に体制に統合してオルタナティブを閉鎖する、日本型企業社会の本丸であった。そしてこうした理解は共同研究「現代日本社会」に見られるごとく、広く他分野の研究者にも共有された。しかしながら90年代の長期にわたるデフレ不況は、80年代の円高不況によっても吹き飛ばなかったこうした認識を根こそぎにしてしまう。