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「公共政策論」メモ
今日しゃべったことをもとに。無断引用は禁止ですよ。
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この講義では最終的には「政治」のぼくなりの定義を与えることを最終的な目標としているが、さしあたりはテキスト『「公共性」論』の前半に即する形で、「市民社会」の概念について考察していきたい。これを言い換えるならば、ユルゲン・ハーバーマスの言う「公共性の構造転換」について考察していく、ということである。
ハーバーマスが同題の有名な著書で問題としたのは文字通り「公共性の構造転換」であるが、それは正確に言えば「公共性」一般ではなく、「市民的公共性」の「構造転換」である。そこでは「市民的公共性」の「成立」についてもまた論じられており、それはハーバーマスの言葉を使えば、宮廷、王権、王の身体が社会の全体性、統合性を表現するメディアとなる絶対王政の「具現的公共性」から、市民間の自由なコミュニケーションこそがそうした表現の場となる「市民的公共性」への「構造転換」とも表現できる。しかしこの著書の主題はそちらではなく、「市民的公共性」の「構造転換」――その変質、堕落?の検討の方にある。
つまりハーバーマスによれば「市民的公共性」は17・18世紀、啓蒙の時代に西欧の市民革命とともに発展し、概念、理念としては19世紀に成熟を見た。しかしながらこの理念は、19世紀末に早くも色褪せ始める。理念にとどまらない実体としての「市民的公共性」が十分に実現したとは必ずしも言い難いにもかかわらず、である。18世紀末から19世紀初めの市民革命期のみならず、19世紀末から20世紀初めにもまた時代の転換期を見出すスタンスはもちろんハーバーマスのオリジナルではない。先取りすれば、独立した学問分野としての社会学の成立もまた、この時代の出来事なのであり、社会学の成立それ自体がこうした「転換期としての同時代」への反応のひとつなのである。
しかしながら我々はまずは「市民的公共性」の「構造転換」について論じる前に、そもそも「市民的公共性」とは何か、を、その「成立」(いま一つの「構造転換」?)にも留意しつつある程度明らかにしておかねばならない。
「市民的公共性」と日本語に訳されたドイツ語のbürgerliche Öffentlichkeitなる語句は、英語版においてはbourgeois public sphereと訳されている。burgerlichをbourgeoisと訳したのは考えすぎで、civilでもよかったのではないかと思われるが、ここで注目したいのはもちろん日本語では「公共性」とほぼ直訳されたÖffentlichkeit――すなわち、öffentlichの名詞形と解され、「öffentlichなること」≒「公共的であること」という概念的な抽象名詞風に訳されたこの語句に対して、英訳者は"the public"(日本語にするなら「公衆」といったところか), "public sphere"(同じく「公共圏」「公共領域」), "publicity"(同じく「公開性」「広報」)といった選択肢の中からあえて"public sphere"を選んでいる、ということである。日本でもこれにならい「市民的公共圏」なる言葉づかいを選択する論者も増えている。
このように解釈するならば、「市民的公共性」「市民的公共圏」とは形容詞を名詞化した抽象概念ではなくもっと具体的な何か、要するに「市民社会」のこと、あるいはその一部、一側面を指す言葉として理解すればよいことになる。いやそもそもこの著作のサブタイトルが「市民社会bürgerliche Gesellschaftの一カテゴリーについての試論」となっている。
となれば次に考えるべきはここでいう意味での「市民社会」ドイツ語のbürgerliche Gesellschaft、英語のcivil societyないしbourgeois society(英訳者はこの訳語を選んでいる)、フランス語のsociété civileとは一体何か、どのようなもの、あるいは観念か、である。
今日われわれがもちいるような意味での、国家とは区別された民間社会としての「市民社会」の概念をそれとしてはっきりと定式化したのは、おそらくは『法の哲学』でのヘーゲルなのであろう。そしてヘーゲルは自分の「市民社会」概念の定式化に当たり、18世紀イギリス、スコットランドの啓蒙思想家たちの道徳哲学、政治経済学の議論(とりわけステュアートとスミス)から多くを学んでいることは言うまでもない。だがここではそうした歴史的詮索からいったんやや距離を置いて、哲学的な概念分析をしてみよう。
今日「社会」という語を用いるときに我々は、それを人間集団、人々の集まり(あえて「集合」とは言うまい。数学的に厳密な概念付けはまだ?できないからだ)のことだと考える。このような集団、集まりについての観念や言葉は、洋の東西を問わず、昔から普通に人々によって用いられていたことは言うまでもない。ただ、ここで「市民社会」と呼んでいる概念、おおむねヘーゲル前後からヨーロッパで形を取り始めた概念に典型的に示されているような社会の捉え方には、ある特徴がある。
人々の集まり、あるいは非常にルースな意味での「社会」(なる言葉によって指示される対象)は、それ自体が原子なのではなく、複数のものたちの寄り集まりである。ただここでは人々の集まりとしての「社会」を構成する「もの」を直ちに人、とりわけ個人、自然人と等置することは避けておこう。つまりここでは「法人」「団体」「家」のことを考えている。それらは「個体」ではあっても、自然人としての「個人」であるとは限らない。
さて、非常にルースな意味での「社会」は人ないし人に準ずるものとしての「個体」の集まりだが、それ自体は個体なのだろうか? という問題がある。ある角度から見れば(とりわけ「社会学」の目から見れば)「家」や「団体」もまたある種の「社会」である。ただしそれは、複数の個体たちの集まりであると同時に、それ自体もまた一個の「個体」であり、そのレベルにおいてはそれを構成する複数の個体たちをいわばその「部分」として取り込み、その上に「全体」として君臨するものである。「法人」、近代的な意味での「組織」、なかんずく「国家」はその典型である。
しかし同時に我々は、そうした「個体」ではないような「社会」についての概念をもまた持っていないだろうか? ヘーゲル前後からの「市民社会」なる言葉は、そうした「個体」ならぬものとしての「社会」についての概念化の、重要な担い手であったと思われる。
「個体individual(s)」ではない存在者とは、どのようなものか?
具体的な実体を持つ存在者の対極として「普遍者universal(s)」という概念が存在論において用いられる。普遍者とはたとえばもの(「個体」のような具体的存在者)の「性質」――色、匂い、質量、気持ち悪さ、等々――、ものともの、あるいはものと性質、またあるいは性質と性質との間に成り立つ「関係」、更には観念、数その他の数学的概念のような抽象的対象、といったものがあげられる。古典的には由緒正しいプラトンの「イデア」がまさにそれにあたる。いわゆる「観念論」と呼ばれる哲学的立場においては、まさにこのような「普遍者」はまぎれもなく確固たる存在者であるどころか、普通の常識的な意味での存在者であるところの具体的な「もの」、「個体」よりも上位に立ちより真正な存在者でさえある。このような意味での「普遍者」として「社会」をとらえることも可能であろう。ただしそのとき「社会」は具体的な「人の集まり」というよりはもっと抽象的な「関係」、あるいは人の集まりの帯びる性質としての「社会的なるもの」といったようなものになってしまう。もちろん、こうした観念論は今日どちらかというと旗色は悪く、こうした「普遍者」に存在者としての地位を認めない「名目論」や「唯物論」(この両者は重なることもあるが一応は別個のものである)の方が優勢である。
観念論としての「社会(的なるもの)」論の可能性についてはとりあえず留保しておこう。やや先走るならば、現代社会学の中にはまごうかたなくこの観念論的なスタンスが生き延びている。ただ、それについて本格的に論じるのは後回しである。われわれが「市民社会」概念の中に見出すのは、もっと穏健な可能性――ただし十分に注目されては来なかった――である。
普通の意味での「個体」、すなわち、一つ二つと数え上げることができないが、かといって抽象的なではなく、名目論や唯物論の立場に立っていても問題なく受容可能な具体的存在者のカテゴリーを我々は知っている。つまり、物質名詞によって指示される対象である。水や空気、土や泥のことを考えよう。あるいは穀物のことを。適切な言葉がうまく見つからないが、例えば法律用語では「種類物」「不特定物」といった言葉がある。
もちろん徹底的な原子論の立場をとり、こうしたものをも、厳密に言えば個体の集まりであって、それを構成する一個一個の個体――穀物や砂、土であれば一つ一つの粒、液体や気体の場合には一個一個の分子、原子をこそ真正の存在者とみなして、普通に我々が「水」や「砂」と呼ぶレベルの不定形のもののことは存在者とはみなさない、という極端な立場もある。しかしもちろんそれは常識の立場ではない。われわれの日常的な常識的存在論には、個体もあれば不特定物もある。(そもそも極端に走るならば原子論の真反対の極端論、「原子的な分解不能の単位などは存在せず、具体的な「個体」とわれわれが思っているものも結局は不定形のものが一時的に寄せ集まってかりそめの形をもっているだけこのことである」という立場も哲学的には成り立ち、真剣に議論されている。)
「市民社会」はこのような、個体ではない不定形な存在者としての社会、「家」「団体」「国家」とは異なり、一つ二つと数えることはできず、内と外を明確に区切る境界線もあるかどうか定かではない、そうしたものとしての「社会」を概念化する言葉としてだんだんと形をとってきた。その前駆形態の一つとして、例えばフーコーが強調する「人口」という言葉づかいを上げることができよう。「人口population」で名指される人々は集合体ではあっても決してそれ自体は「個体」ではない。あるいはそれこそ「公共性の構造転換」以降に注目を浴びる「大衆」。大衆とは英語でmassである。もちろん群衆crowdもまた物質名詞である。いや、「市民的公共性」の担い手たる市民citizen(これは複数形がある、個体、個人を指示する名詞だ)に対してさえ、その集まりを(the) publicという物質名詞で名指すことができる。
マンフレート・リーデルはドイツ語のGemeinschaftとGesellschaft、更にその類語や語源――英語のcommunityとsociety、ラテン語のcommunitasとsocietasといった言葉、概念系の歴史をたどり、中世から近世まではこれらの言葉はそれほど明確に使い分けられていなかったと指摘いている。しかし18世紀から19世紀以降、societas系の言葉はだんだんと、「個体」ならぬものとしての社会を指す言葉として用いられるようになっていったのではないか。
そして今一つ、「市民社会」概念とともに迫り出してきた、新たな社会について概念化、イメージとして、人々がそこに存在する場所、空間として「社会」をとらえるというスタンスについても、注目しておく必要がありそうである。これは先にあげた観念論的な「社会」概念とも非常に縁が深い――ある意味で社会学の歴史においては、それを無害化し、科学と折り合いをつけるためのテクニックとしても理解することができそうである。
さて、以上の哲学的?議論を踏まえたうえで、次回は今少し具体的に「市民社会」について考えていこう。
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