教科書とは何か

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041122#1101099991
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20041124#1101278529

大変(皮肉でなく)有意義なご提言なのだが、しかしそもそも初・中級教科書の不在だけではなく、日本社会学における誰もが認める「講座」の不在とゆーのをなんとかできないか。3度目の東大講座は延々時間をかけてまだ未完だし、完結はしたものの岩波講座はただのぬるいエッセイ集であんなものはただのクソである。(理論と印象論だけでまともな実証研究の案内がひとつもない。)
ギデンズはあまり好きではない(そんなにブリリアントとは思わない)のだが、ああいう教科書があるのはもちろん大変よいことであり、その点でやはり彼は偉い。
しかし問題はSociologyは決して社会学におけるCellの対応物ではない、ということだ。Cellの守備範囲はもちろん、今日の生物学において枢要の戦略的拠点、すべての生物学者にとっての必須教養となるべき領域であるから、この教科書は生物学的公共圏の土台となりうる。で、Sociologyの方はどうかというと、もちろんこの本も社会学的公共圏の土台となりうるだけのものではあるが、しかしそれはCellと同じ意味においてではない。Sociologyの特徴は何と言っても本格的な講座モノを丸ごと1冊に濃縮したその網羅性、包括性にこそある。そして社会学という学問の現状に照らせば、それ以外の形での基本的教科書というものは書きようがないのだ。社会学の現状においては、Cellはありえないし、経済学のようにミクロ・マクロの基礎理論プラス計量をまずやらせる、というプログラムも組めないし、政治学のように「とりあえず議会制民主主義を押さえとけ」という風にもできないし、法律学のように「とりあえず憲・民・刑、とりわけ民法(総則と債権各論あたり?)!」ともいかないし、また物理学のように「力学」「電磁気学」「熱・統計力学」「相対性理論」「量子力学」というかっちりした講座を組むこともできない。
結局現状ではギデンズのようなやり方しかない。それを日本で踏襲しているのは最近の東大から出た奥井智之の単著であるが、あれは初級入門編、ギデンズで言えばむしろ結局訳されなかった短い方に対応するものである。現状ではでかい方のSociologyに対応するものはない。(ひょっとしたら庄司興吉『日本社会学の挑戦』有斐閣、がその準備なのかもしれないが。)近代化論を軸とした比較歴史社会学を焦点とした富永健一の一連の教科書的仕事は、むしろCellに近いというべきだろうが、少なくとも日本社会学の現状は、あれを万人の必須教養として強要するようにはできていない。


でまあ最悪なのがよくあるせいぜい300頁くらいのペーパーバックの教科書を10人位がよってたかって分担して書く奴。あれ最低。あれって実は書く方も(そして編集する方はもっと)楽じゃないし、実入りは悪いし、一つ一つの章が細切れでそういう細切れが脈絡なく続くから読む方もなんだかよくわからない。(って俺そういう企画にいま誘われてんだよ。どうするよ。)共著の教科書はせめて5人以下に抑え、頁数は最低でも400にしてほしい。そうすれば編集の労も減るし、一人一人の分担が増えてその分充実したわかりやすい記述も可能になるし。(その意味で有斐閣New Liberal Arts Selectionは模範的。でもまだ『社会学』は出てない。)


更に議論をねじれさせるようなことを言って恐縮だが、個人的には教養の社会学教科書より教養の社会科学総合教科書がほしい。

 大川正彦『マルクス いま、コミュニズムを生きるとは?』(NHK出版)、せっかくいただいといてなんですが――ダメだよこれ。全然ダメです。前の『正義』(岩波書店)[bk1, amzaon]の方がずっといい本、ましな本だ。あの本は北田暁大『責任と正義』(勁草書房)と並ぶ「負け犬リベラリスト宣言」として大変貴重な本だったけど、そこで踏みとどまらずに「コミュニスト宣言」しちゃったらだめだよ。「いや、してない」と言うかもしれないけど、結構誘惑を感じてるじゃない。そんなものは決然と撥ね付けないと。当初予定されていた「幸福な奴隷は自由を望みうるか?」がテーマだったら、ひょっとしたらすごく面白いものになったのに。(もちろんそれではそもそもマルクス論にはならなかったかもしれないが。)
 具体的に言いますよ。延々と基本的なことを確認した(もちろんそれは悪いことじゃない、というか入門書として必要なことだ)挙句に、本書で最終的に問われるもっとも肝心な問いは、ぼくの考えるところでは、これだ;
 20世紀のコミュニズムは、いわれるところの「労働者階級による政治権力の不可避的な獲得」を遂げたのち、強制収容所における強制労働、無用な者の排出と大量殺戮などの残虐非道を繰り返し、革命の挫折をまがうかたなく歴史の中に遺した。そもそも、コミュニズム革命そのものに、挫折の運命が予定されていたのか。それとも、マルクスの思い描く「集合的身体」、新しい「社会的人間」の創造・創出ということがらは、途方もない企て、途方もない残虐非道な行為をともなわずにはいないのか。(91頁)
 そしてそれに対する答えは――
 問題視しようとしていたのは、そうした新しい「社会的人間」の創造・創出といったときに、私がマルクスに読み込んだ〈働く身体と苦しみ痛む身体の二重性〉という視座、あるいは〈受苦的存在としての人間〉という視座は、どれほどしっかりと引き継がれていたのか、いるのか、ということである。この新しい「社会的人間」は、どのように割り引いてみても、やはり、身体の二重性のうち、働く身体に相当の重心を傾けているもののようにみえる。苦しみ痛む身体、そればかりか、うまく働かない身体、能力をもつ以前の無能な(と当該社会の社会慣習的な「能力」観によって位置づけられる)身体たちの共同体のことについて、あまり深く考えてこなかったのではないか。(108-9頁)
 うーん、なんだかただの精神論、根性論のような気もするが、ではよく考えたとしていったいどうなるか、考えてみよう。〈働く身体と苦しみ痛む身体の二重性〉というのは結局どういうことかと言えば、人間はものをつくると同時に、ものを消費して生きざるをえない、ということだ。大川のいうのとは違って「働くこと自体が楽しいから報酬はいらない」などということはありえない。いくら働くこと自体が楽しくったって、身体は消耗するから何らかの報酬が、消費して気力体力を回復するための何かが必要となる。
 消耗するのは何も働いたときだけじゃない。何も有用なものをつくらない、単なる遊びのときだって、消耗する。大体遊びと労働の区別自体流動的だ。それ自体が楽しいものであるような労働は、同時にいくぶんかは遊びだし、遊びは消耗するけど、まさに楽しみを生産するという意味でいくぶんかは労働だ。そして更に重要なことは、働きもせず、かといって遊びもせず、何もしていない時にも人間は消耗し、生を維持するための糧を必要とする、ということだ。消耗と苦痛はイコールではないが、苦痛を覚えるときは普通消耗している。そして厄介なことに、苦痛を覚えていないとき、楽しんでいる時でさえも、そして既に見たとおり、何もしていない時にも消耗する。〈受苦的存在としての人間〉というのはこういうことだ。肝腎なことは、働かない/働けない人間はいても、消耗しない人間はいない、ということだ。――あれ、こう考えるなら〈受苦的存在としての人間〉という視座を大切にしてきたのは、まず何よりも、マルクスがあれほど馬鹿にした功利主義者たちだ、ということにはならないか? 
 実際問題として、功利主義は市場主義とイコールではない。功利主義者たちにとっては市場だろうが計画経済だろうがなんだろうが、目的達成のための手段にしか過ぎない。実際社会主義を支持した功利主義者だってたくさんいる。そして市場経済を支持したからといって、市場で稼ぐ能力をもたない者の幸福を無視したりはしない。彼らの幸福の実現のためには市場が役に立たないとなれば、他の手段に訴えることを功利主義者はまったく躊躇しない――やっぱり功利主義者の方が、マルクス主義者よりよっぽど〈働く身体と苦しみ痛む身体の二重性〉という視座、あるいは〈受苦的存在としての人間〉という視座を大切にしてきた、ということになるじゃないか。
 やっぱりマルクスには、あるいは百歩譲ってもマルクス主義は、それこそ山之内靖がしつこく言ってきたとおり、〈受苦的存在としての人間〉という視座が相対的に欠けていたんじゃないか。そしてマルクスが俗物呼ばわりして嫌った功利主義のほうにむしろそういうセンスがあったとするならば、この欠落は偶然ではなく、何か確固たる理由があるんじゃないか――ぼくはそう考える。
 より具体的に言えば、仮にマルクスに〈受苦的存在としての人間〉という視座があったとしても、それは不徹底であったか、あるいは偏ったものであったのではないか、とぼくは考えるのだ。もちろんマルクスの考える新しい「社会的人間」は〈働く身体〉に偏っていたとは思う。しかしまったく〈苦しみ痛む身体〉としての側面が無視されていたとは思わない。つまりそれは「集合的身体」として、他人の痛み苦しみ(そして喜び楽しみ)をもわがこととして感受しうる身体としてもイメージされていた。マルクスが重視する受苦性とは、そういう類的な共感能力ではなかったろうか。しかしそのような感受性は、自然必然的に備わった受動的性質というよりは、訓練によって獲得される積極的な能力という側面が強いのではないか。
 20世紀のコミュニズムが「排出と大量殺戮」してきた「無用な者」たちは、必ずしも「うまく働かない身体、能力をもつ以前の無能な身体たち」だけではなかったのではないか。「ブルジョワ分子」として粛清された篤農家や企業家、そして知識人たちのように、どちらかといえば有能な、しかしマルクス的な意味での「受苦へのまなざし」を十分に身体化できなかった(と見なされた)者たちもまた、まさに新しい「社会的人間」になれない「無用な者」として「排出と大量殺戮」されてきたのではなかったか。
 つまりあれですよ、単純に言ってしまえば、人間性というものはそう簡単には変わらない、という、マルクスの言う意味でのコミュニスト的な受苦性なんかよりもより、もっとずっと根本的な意味での受苦性です。ピーター・シンガーマルクスを批判したバクーニンに肩入れしたり、あるいは「ダーウィン主義左翼」なんて口走る時に気にしてるのもこれ(『マルクス雄松堂出版[bk1, amazon]、『現実的な左翼に進化する』新潮社[bk1, amazon])。あるいは小泉義之が『生殖の哲学』(河出書房新社)[bk1amazon]で考えているのもこの問題。もうはっきり言ってるもの。「たしかに人生観や政治観や社会観程度のものなら変えることは簡単ですが、本当の意味での変身は、私たちには無理です。」(120頁)人間が人間のままでコミュニズムが要求する「社会的人間」になることは、ぼくは無理だと判断する。そのことの理由は不十分だけど、『経済学という教養』で既に言ってある。