橳島次郎氏の新著を眺めて

 

もしも宇宙に行くのなら――人間の未来のための思考実験

もしも宇宙に行くのなら――人間の未来のための思考実験

 

  先にツイートもしたが、正直この本での議論には当惑している。

 

稲葉振一郎は、地上で多くの人が人体改造を普通に行う文明社会が実現すれば、宇宙に出ていくハードルが下がって宇宙植民も実現に向かうだろうが、そういう社会にならなければ、人びとが体を改造してまで宇宙植民に応じることはないだろうと結論している。私は、この結論に二つの点で異論がある。

             橳島次郎『もしも宇宙に行くのなら』56頁

 

 あれ? 俺こんなこと言ったっけ?

 

 こうして見ると、本書のここまでの議論全体が、ある種の循環論法のようなものになっていることがわかる。すなわち「宇宙植民は、改造人聞や自律型ロボットを普通の「人間」として受け入れた社会において、そうした改造人聞やロボットを主役としてであれば、比較的高くなるであろう」、という命題と、「「強いAI」を備えた人間レベルの自律型ロボットは、すでに自然人だけではなく種々の改造人聞が存在し、宇宙植民も大規模に行われている社会においてであれば、大量の需要に恵まれるであろう」という命題は、奇妙な対応関係にある。「宇宙植民事業が継続的に行われていること」と「人間レベルの知性を備えた自律型ロボットが実現していること」とは、互いに厳密な意味での必要条件をなしている――そうであればまさに循環論法である――わけではないが、どちらか一方が成り立っていなければ、他方が成り立つ可能性が極めて低くなるのだ。この意味でも宇宙植民と人間レベルの自律型ロボット、人造人間=人工人とは、その実現に際して「飛躍」を必要とする事業なのである。

             稲葉振一郎『宇宙倫理学入門』188~189頁

 

 稲葉が人間レベルの自律型ロボット=人造人間と改造人間、エンハンスド・ヒューマンを同列に、連続線上に論じていることを見落としているからかもしれないが、橳島は稲葉の議論の反面だけを恣意的に取り出して「異論」とやらを提出している。しかし私の議論は「地上で多くの人が人体改造を普通に行う文明社会が実現すれば、宇宙に出ていくハードルが下がって宇宙植民も実現に向かうだろうが、そういう社会にならなければ、人びとが体を改造してまで宇宙植民に応じることはないだろう」にとどまるようなものではない。それとあわせて「そもそも人間レベルの自律型ロボットやある種の徹底した改造人間に対する大口需要としては、宇宙植民以外には考えにくい」という議論と組み合わせて初めて、私の議論は意味を持つ。

 そもそも稲葉の議論は、リベラリズムを前提としたうえで宇宙植民が正当化可能か、あるいは正当化などしなくとも人々は勝手に宇宙に出ていくか、と考えてみて、懐疑的な暫定的結論を提出したうえで、しかし現下のリベラリズムが前提としているような人間なるものが、現下の自由社会の中でもいつしか変容していくかもしれず、そうなるとその議論の前提は崩れるが、ではそのような変容とはいかなるものか? と考えて、人工知能、ポストヒューマニティの可能性に説き及ぶものである(それでもなお全体のトーンは懐疑的だが)。

 それに対して橳島の議論は、最初から宇宙開発、人類の宇宙進出を自己目的化している、と言ってよい。あえて倫理学的な言い方をすれば一種の徳倫理、宇宙進出が人間の本性のより良き発露、開花につながるという議論だということになるが、そもそもそこには、なぜ人類は宇宙に行くべきなのか、行った方がよいのか、についての論証と呼べるものはない。厳しく言えばただの趣味と説教のアマルガムである。

(むろん私が行っているような、また英語圏での宇宙倫理学においても自覚されているような、問題のレベルの切り分けについての明確な意識もない。またETについての認識も拙著の補論1などに比べた時、あまりにも素朴に過ぎる。)

 

宇宙倫理学入門

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宇宙倫理学

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