Normal AccidentsとGlobal Catastrophic Risks (覚書)

 災害には人為的なものもあれば非人為的なものもある。
 人為的な災害について、そのリスクをコントロールするにあたっては、発生を防ぐ・確率を減らす予防・防災があり、起こってしまった場合に損害を補償し原状復帰を目指す回復・復興があり、また起こってしまった際の被害そのものを低減する減災がある。
 非人為的な災害については予防・防災は考えられないように思われる。もちろん災害の根本原因となる自然的な事象についてはそうであるが、それが実際に自然災害として人間社会にどの程度のダメージを与えるかは、人為によって左右され、その限りで予防・防災を論じる余地はあるが、近年ではこの不可避性を考慮に入れた「減災」という概念も登場してきている。
 非人為的な災害の代表は事故であり、それ以外には他の共同体から仕掛けられる戦争、共同体内の反社会的分子が引き起こす犯罪、テロが考えられる。犯罪・テロについては、あるいは戦争についても国際社会という共同体のオーダーで考えるならば、共同体内の事故として扱うこともできる。その限りでは予防という観点からのアプローチは有意義である。しかし侵略戦争については自然災害に類比的なアプローチが意味を持つかもしれない。逆に自然災害への対応を侵略戦争と類比的に語るレトリックも存在する。
 事故についてはチャールズ・ペローのノーマル・アクシデント理論がある。ペローによれば大規模で複雑で、部分間の相互依存が緊密であり、かつそうした相互関係が非線形性をおびるシステムにおいては、確率論的にどうしても一定の事故が起こること自体は不可避である、と考える。自然災害など非人為的な災害には予防的アプローチは無意味だが、人為的な事故は原理的に予防が可能である、という考え方がかつてあったとしたら、ペローのこの理論はそうした伝統的な考え方を揺るがし、(先の自然災害にも人為的介入の余地を見出すのとはまた別の意味で)自然災害と人為的事故の単純な二分法を批判するものである。
 ペローのノーマル・アクシデント理論に対して、ハイリスクな業務を扱いながらほとんど事故を起こしていない現場の実例を念頭に置いて、事故を適切に予防する高信頼性組織という概念が反論として提起されている。高信頼性(組織)理論にはいくつかの立場があるが、カール・ワイクはこのような組織における物語、想像力の重要性を重視する。これを我々は、想像力の高い組織は想像上のシミュレーションにおける事故の擬似体験の能力が高く、その知見をもって事故に対処できる、という議論として解釈しよう。
 ノーマル・アクシデント理論、高信頼性組織理論は基本的にローカルな組織、コミュニティを対象とするものだが、これに対してニック・ボストロムの存亡リスク、その中でも急性の災害についてのグローバル・カタストロフィック・リスクの概念は、全人類社会レベルに対応するものである。これを主として核戦争などの人為的災害を念頭に置いて、ペローのノーマル・アクシデント理論と統合することは可能だろう。そうすると、少なくともある種のグローバル・カタストロフィック・リスクは確率論的に見て不可避であると考えるべきだ、ということになる。しかしペローらの従来のノーマル・アクシデント理論で扱われてきた範囲はせいぜい原発事故等のローカル・リスクである。
 ボストロムは存亡リスクの特徴として、それへの対応における試行錯誤のアプローチが許されない、という点を挙げる。被害の範囲が全人類社会をカバーすることはなくローカルにとどまるような災害に対しては、人類社会は試行錯誤を通じてその対策を学ぶことができるが、存亡リスクの場合には一度起これば人類社会全体が回復不能のダメージを受けるため、試行錯誤の余地がない、ということになる。これに対してワイク流の考え方に立てば、現実の試行錯誤によってではなく、想像力を駆使してのバーチャルな試行錯誤の能力を高めていく、という対応が考えられる。しかしいかなる高信頼性組織にも限界があり、長期的に見ればペローのノーマル・アクシデント理論のほうが正しく、それはグローバル・カタストロフィック・リスクにおいても同様だ、とすればどうなるだろうか? 
 存亡リスクの問題として今ひとつ重要なポイントは、被害を補償する回復・復興に際して保険原理の助けをあまりあてにできない、ということである。仮に存亡リスクのリスク評価を、経験の蓄積によらず、想像力と科学的知見を通じて理論的に正しく予測できたとしても、それに対応する保険を設計することは困難である。保険メカニズムを当てにできるのは実はローカルなリスクであり、同じリスクに直面する集団の間でリスクをシェアすることができる場合である。全人類社会を共通に襲う存亡リスクに対しては、これは役に立たない。一定の準備を前もって用意しておけば予防できるような、あるいは発生してしまったとしても、相応の準備があればその後の人類絶滅を防ぎ、復興が可能となるような種類の存亡リスクでさえ、保険メカニズムは利用できない。あくまでも、人類社会全体で、被害を補償するための貯蓄を行うことによって、時間的に世代間のリスク分担をすることしかできない。
 高度に複雑化した大規模な社会において、人為的な存亡リスク、グローバル・カタストロフィック・リスクの現実的な確率が増大するかしないかは一概には言えないが、リスクを限りなく低める高信頼性組織を必ず作り出せるという楽観論は禁物である。仮に高信頼性理論の立場を受け入れるとしても、そもそもワイクによれば、そのような高信頼性組織は想像力を発揮できる自由な組織でなければならない。しかし他方でボストロムは、存亡リスクに対応するためには、全人類社会レベルでの統一的な意思決定とその遂行を可能にする、強力な集権的組織(シングルトン)が必要となる。これがワイクが想像するような高度に柔軟でリベラルな組織と両立するかどうかは不明である。
 もちろんこのような存亡リスクに対処するよりラディカルな方法としては、人類社会を単一のコミュニティにはせず、物理的に断絶して自律可能な複数のコミュニティのネットワークにする、という方法がある。こうすればコミュニティ全体を破滅させるカタストロフィでさえローカル化できる。しかしこれはとりわけ産業化以降の人類文明の趨勢(都市化、グローバル化)には反している。高密度ネットワーク社会の利便性を犠牲にしてでも、人類そのものの存続のために分散化(具体的には宇宙植民ぐらいしかない)を行うという選択を(ボストロムのいうシングルトン無しで、あるいはシングルトンがあったとしてもシングルトンの意思決定として)なしうるかどうかは自明ではない。
 そもそも「人類そのものの存続」という概念、少なくとも追求に値する目標としてのそれの具体的なその内容自体が定かではない。一番わかり易いのはおそらくこのような考え方だ。人類が蓄積してきた文化、知識の総体を受け継いで生きる人々の社会、コミュニティがどこかに存続することをもって、我々は「人類そのものの存続」とみなすことができる、と。しかしそのような目標を具体的に抱いて、かつそれを実行すべく適切な事業を行うことができる主体とはどのようなものだろうか? ここで人類文化を継承するコミュニティは複数あってもよい、というより、複数存在しなければならない。しかしそれぞれのコミュニティは、リスクの伝播による共倒れの危険を避けるためには、互いにせいぜい情報をやり取りするだけで、物理的には一定の距離を隔てて、自律していなければならない。それゆえ、統一的な意思決定の主体的な単位たりうるのはせいぜい個々のコミュニティが上限であり、複数コミュニティからなる人類社会全体ではありえないだろう。
 とはいえそのようなゆるいネットワークとしての星間社会は、いまだにシングルトンを実現できていない現在の人類社会と構造的にむしろ似ているが、物理的に距離をおいて隔絶した複数コミュニティに分散しているがゆえに、存亡リスクに対しては現在の人類社会より頑健であることは確かであり、その分望ましいとは言える。しかしながら現在の地球社会からそちらへ移行する動機づけがどこから調達しうるかは明らかではない。現実的には、ボストロム的なシングルトンが達成された上で、シングルトンによる決定の結果宇宙植民が実行されるよりは、現状のままの人類社会において、ローカルなコミュニティや事業体が勝手に植民事業を散発的に実行する、という可能性の方が大きいのではないか。