木庭顕先生よりメール転載

 木庭顕先生の「日本国憲法9条の知的基礎」(『法学セミナー』2019年8月号)を読んでの吉良貴之氏のブログエントリを受けてのツイッターでのやり取り、とりわけ私のスレッドに対して、木庭顕先生よりメールでコメントをいただいたので、行分け等修正したうえで転載する。転載の許可はいただいている。

 

非軍事化の達成、集団の実力の克服、のために、軍事化のメカニズムである、「半族」を利用したInitiationがかかわっているというのは、ギリシャ史学では、Vidal-Naquetの有名な研究があり、それによると、しかしこの軍事化メカニズムを掘り起こしかつ徹底的に神話化儀礼化する加工にポイントがあります。

これは私の見解ですが、この点ローマに関してBruniも気づいていました。

これがどこに来るかと言えば、政治的人文主義ないし共和主義の文脈で(アメリカで)市民軍が礼賛されることがあるが、それはリアルと儀礼を混同した議論だ、ということになる。とはいえ、ポーコックはイギリス革命におけるmilitiaの役割を高く見ます。

近代はむしろこの神話化儀礼化というポイントをはずして「まじで」やっちゃった(とはいえ、ご存じのスコットランド啓蒙では、Humeなどの派が強く軍事化を否定した - 私の議論に最近経済畑の人の理解が顕著である事につながる、なんだかフィーリングが合うなあ、と思っています)。

ギリシャにもそういう逸脱は常にあり、ローマでも結局致命的になる。軍事化メカニズムは必要悪だが、しかし逸脱防止にはまだまだ工夫が必要だ、ということになります。

以上の点は、これまでの私の著作(主として三部作)でいずれも詳しく論じられています。

一番さしあたりは、三谷書評の駐の末尾です。

なお、私の9条論は平和主義ではなく、私は平和主義に共感を覚えるものの、

9条はそれではなく、極めて現実的法的なデヴァイスで、従来の政府の立場を強く基礎づけるものである、つまり防衛のためのよく限定された、しかし高度な組織と装備を持つことを指示するものである、と解釈します。

いずれにせよ、私が言いたいのは、それもどうでもよく、床屋政談でなく、学問的に議論しろ、その際に時空に大きく広がる視野を持て、ということです。日本がどうしただの、今の日本の国際環境などから論ずるのは、転倒している、ということです。

 

――暴力・闘争の神話化・儀礼化による解体再編というポイントは、かつて関曠野先生や田島正樹先生が強調されたところであり、おそらくはスポーツの起源とその機能といった論点ともかかわるかと存じます。(稲葉)

 

スポーツの引照は的確です。ご存じのとおり、ギリシャにおける競技あるいは狩りはそういう役割を果たしました。しかし本当に狐を殺すのかというのが今の問題です。