教育の存在論(嘘)についての思い付き

 教育社会学・教育経済学の学校教育についての理論、その存在論的前提について考えてみよう。
 人的資本論リベラリズム本流のそれと一致する。人間は本性レベルにおいては皆同じであり(かつその本性は不変であり)、違いは後天的に付加されるものである。教育とはそうした付加の一種である。教育の成果は新たな財産として個人の所有物となる、あるいはサイボーグの強化部品となる。ここでは学校その他教育機関は育成機能を持つ。
 シグナリング・スクリーニング論はその対極である。人間は本性のレベルにおいて多様であり、かつその本性は不変である。学校教育がなしうるのはその識別のみである。ここでは教育機関はもっぱら選別機構である。この立場は生物学的決定論、そして逆説的にもある種の批判理論(生育環境決定論)に見られるものである。
 いま一つのモデルは、やや奇妙なものである。人間の本性は多様であるが、不変ではなくある程度可塑的なものである。そして教育の機能は、この人間の本性を変えることである。これもまた人間改造思想ではあるが、何かを付け加えるというよりは本体そのものを作り変えてしまうという発想であり、財産獲得モデルでは理解できない。あえて言うならばこれは徳倫理学的な存在論である。