〆切が迫っているのだが

別のことを考える。
 佐藤亜紀がなぜあれほど小松左京を持ち上げることに対して苛立っているのか。それにはちゃんとした理由がある。それはおそらく、伊藤計劃について小松左京、そしてとりわけ山田正紀の影響を指摘した発言に対する反発とも関係がある。
 件のtweet小松左京についてはひととおりのことはすでに佐藤は語っているし、更に笠井潔の若書きの小松左京論への苦笑交じりの肯定的コメント(発見できなかった。佐藤氏のブログの検索機能はどうなってるんだ)もなんとなくわかるのだが、山田正紀についての強い拒絶と軽蔑はどこからくるのか。山田正紀が「残念な作家」であるということについては、少なくとも80年代までに限っては同意する(その後は読んでいないので衡平な判断はできない。『機神兵団』ラストについては腰が抜けた)が、彼の残念さ(『終末局面』や『幻象機械』のとほほなオチに代表される)がどこに由来するのか、そこに深堀すべき何物もなくただ単に残念なだけなのか、についてはもう少し考えてみたい。それはおそらく、小松のどんづまりの理由とも少しはつながっているような気がする。


 それにしても北野勇作こんな風に語っているが、同じく小松左京賞をほかならぬ小松自身によって拒絶された伊藤もまた、同じような思いを抱いていただろう。