『社会学入門』付録以来の宿題

 前著の付録では社会学全体論クワインデイヴィドソンの意味・信念の全体論との対応付けと統合という課題が手付かずのまま放り出されていた。


 その宿題を果たすべく書きなぐっているメモ。そのおかげでようやくベイジアンとかラムジー哲学とかも齧る覚悟が付いたのだが。

 何か間違ったことなど書いていればご教示ください。


 おそらく我々はドナルド・デイヴィドソンが遺した「思考、意味、行為の統一理論」の構想を人間社会科学の一般理論の基礎として役立てうるのではないか。


 デイヴィドソンの哲学体系は一見、行為論、その延長線上での「非法則的一元論」としての心の哲学と、アルフレッド・タルスキの真理論を基礎とした、真理条件意味論を主軸とした全体論言語哲学の二側面からなるものとしてわれわれの目に映る。しかしこの両系列は80年代以降、デイヴィドソンが「統一理論」「合理性の科学」と呼ぶより大規模な構想の中に回収され、統合されるべきものであることがだんだんと明らかになってくる。


 デイヴィドソンの意味論、言語哲学について、その結論レベルで(つまりはすこぶる非哲学的な流儀で)きわめて大雑把に要約すると、以下のとおりである。


 まず、言葉の意味を考える際の基本的な単位は個々の単語ではなく文であり、文の意味を考える際に基準となる(つまりすべてを尽くすわけではないが、典型的な)ケースとしては、文で表現されている命題が、現実世界の事実と対応していることである。これはいわゆる規約T、「つまり文Tが真であるのは、(世界の中のある状況が)Tである時であり、またその時に限る」にあらわされている。たとえば「文「雨が降っている」が真であるのは、雨が降っているであり、ときまたその時に限る」というわけである。ここで単語、つまり名詞「雨」とか動詞句「降っている」とか(更に細かく言えば動詞「降る」助動詞「いる」)あるいは格助詞「が」についていきなりそれらの「意味」を考えるのではなく、そうした細かい単位から成り立っている複合体としての文「雨が降っている」をまずは意味の担い手と考える。そしてその「意味」を言語哲学的なジャーゴンでいえば「真理値」、真か偽かであると考える。あるいは「文」という存在者は認めても、「文の意味」という存在者を想定する必要を特に求めず、「文TがTを意味する」とは要するに、「文TはTならば真であり、そうでなければ偽である」ということだ、と考えるのである。となると文を構成するより小さな単位としての語の「意味」というのは、世界の中の何者か、何事かに対応してそれを表しているというより、それがその部分となっている文の意味に対する貢献、寄与、機能として考えるべきだ、ということである。
 ところが上の段落に説明したことはデイヴィドソンの創見などではなく、述語論理学を創始し、現代的な言語哲学の始祖となったゴットロープ・フレーゲにおいてすでに見られた構想であり、デイヴィドソンもまたその伝統の中に位置している。デイヴィドソン的な「全体論」とは上にまとめた文単位の意味論よりももう少し強い何ものかである。


 全体論としてのデイヴィドソン言語哲学においては、語ではなく文が意味の基本単位とみなされるにとどまらない。「語は、それ自体で世界に対応し、何者かないし何事かを直接意味することは普通はない、という意味において意味論的な原子ではないが、文はそのような意味での意味論的な原子である」という意味論、言語理論は当然に考えられるものであるが、デイヴィドソンのそれはこうした「語については全体論、文については原子論」というようなものではない。厳密に言えば文レベルで、全体論を構想しようというものだ。つまり、世界に対応して何者か、何事かを表現しているのは、厳密に言えば一個一個の文ではなく、そのような文全体の集積、ネットワークとしての言語――口にされまた文字にされたさまざまな文、言語表現の全体――である、というのが、デイヴィドソンの意味での全体論である。
 しかしまたしても、このような意味での全体論もまた、デイヴィドソンのオリジナルというわけではない。フレーゲ的な伝統の中では、デイヴィドソンの直接の師にあたるウィラード・ヴァン・オーマン・クワインが、こうした全体論の主唱者としてつとに著名である。
 では、デイヴィドソンの創見はどのあたりにあるのか? それを考えるためにも、まずはクワインの議論を瞥見しておくことが望ましい。初めに示唆したとおり、デイヴィドソンの構想は意味論、言語哲学にとどまらず、行為論と統合されて合理的主体の一般理論とでもいうべきものの一部をなすものとなっているのだが、クワインもまたただ単に言語的意味論の地平にとどまっているわけではなく、その言語哲学は認識論、存在論にも通じていくものになっているのである。
 クワイン全体論構想への入り口は、例えば彼の有名な論文「経験論の二つのドグマ」における、「分析(的)−総合(的)」の二分法の批判あたりに見つけることができる。この二分法批判において念頭に置かれていたのは、例えば20世紀前半において有力な意味論・認識論・科学哲学構想としての論理実証主義のプログラムである。
 論理実証主義のプログラムにおいては、科学的な命題は分析的命題と総合的命題の二種類にきれいに区分される。前者は論理法則と語の定義によってその真偽が定まる命題(たとえば「独身者の中には結婚している者がいる」は語の定義と論理法則から明らかに偽であり、実際に調査して確かめる必要はない)であり、経験的に検証される必要はないし、また出来ない。それに対して後者は、世界の中の事実に即して、経験的にその真偽が検証されるべき命題である。論理実証主義の構想においては、この区別は厳密に維持可能であるから、たとえ分析的命題が相互依存的で、単独では具体的な意味を担えない、つまり「原子」ではありえないとしても、個々の総合的命題はそれぞれに検証可能であり、一種意味論的には「原子」として扱うことができる。
 クワインはこの区別を拒絶――とはいかないまでも相対化し、分析性と総合性との区別は見かけほど自明ではない、と主張する。それゆえに、分析的命題のみならず、総合的命題もまた、意味論的な原子としての資格を失い、他の命題との関連の中で初めてその意味を獲得するものだ、と位置づけなおされる。かといって、すべての命題が分析的なものとなるというわけではもちろんない。純粋に経験的に、事実との対応によって真偽が決まる、「純粋な総合的命題」が存在しないだけではなく、逆に純粋に経験から切断され、世界的事実とは無関係に純粋に論理的に、あるいはもっぱら定義によってその意味が定まる、「純粋な分析的命題」もまた存在しない。だからクワインの議論は言語の水準で自己完結しているわけではなく、言語と世界の対応についての認識論、存在論をも含んでいる。そして彼の議論が「全体論的」であるのは「個々の命題、文の意味が言語全体の中で決まる」とするからだけではなく、「そうした言語は全体として世界に対応している」とするからでもある。


 さて、以上のようなことが師たるクワインによって既に論じられているとして(とはいえ、クワインのそうした展開に対するデイヴィドソンの有形無形の寄与は極めて大きいと思われるが)、デイヴィドソンの独自性をどこに求めればよいのか? デイヴィドソン全体論は、実は言語的意味の全体論にとどまらない。
 まず、彼は言語レベルにおいてのみならず、信念や知識もまた全体論的な構造を持つ、と論じる。これはある意味で当然である。
 分析哲学的な意味での「信念」なる語には注意が必要であることは言うまでもない。この枠組みでは信念とは知識や欲求、意図と同様に「命題的態度」の一種であり、現代の日常的な日本語としては「思い」くらいにしておくとよいと思われる。たとえば文Tで表されるような事態があったとして、「信念B(T)を主体Aが持っている」という表現は「AはTだと思っている」と言い換えられる。ちなみに「知識K(T)をAが持っている」となれば「AはTだと知っている」であるし、「欲求D(T)をAが持っている」は「AはT(となること)を欲している」である。)
 信念や知識は命題的態度、すなわち言語的な構造に従う何事かである以上、それらもまた全体論的なものであることは自明であるように見える。(あるいは命題的態度ではないような知識・思いはここではさしあたり度外視されている。)実際、クワインもまた彼の全体論的哲学を狭義の言語にとどめているわけではない。しかしデイヴィドソンは、ただ単に現実世界、知識・信念の世界、そして言語の世界の間に、並行した対応関係を想定しているわけではない。彼が「全体論」というときには、ただ単に言語的意味が全体論的であり、知識や信念もまた全体論的である、と言っているのではない。言語的意味と知識・信念といった心的現象をひっくるめた総体が、相互依存的な全体をなしている、と彼は考えている。
 ただ単に知識・信念も言語的意味もそれぞれに全体論的である、というだけでは、この二つの世界、二つの水準の間に単純な対応関係、そしてどちらかのどちらかへの還元さえもまた可能と考えられてしまう余地がある。しかしデイヴィドソンはそうは考えない。信念・知識と言語的意味とは同時決定されると考えるべきである。これがデイヴィドソンのアイディアである。具体的にはそれは「寛容の原理」と呼ばれる公準に表れている。この言葉づかい自体はクワインと共有されているが、デイヴィドソンクワインでは同じ用語に込めたニュアンスが異なる。『ことばと対象』のクワインが「根元的翻訳」、つまりは言語表現と別の言語表現の対応について語るのに対して、デイヴィドソンは「根元的解釈」、つまり言語と信念の対応について論じる。
 よく知られた「根元的翻訳」「根元的解釈」とは、未知の言語の発話者を前にしたとき、解釈者がどのようにしてその発話を解釈するか、という思考実験であり、クワインはそれを発話者の表明した発話(らしきもの)の中に、発話者と解釈者が共有する状況についての肯定的描写が含まれていることに賭けて、それを手掛かりに更にその背後の未知の言語全体の理解への道を進んでいく、というシナリオを提示した。それに対してデイヴィドソンは、未知の発話者の断片的発話(らしきもの)を解釈するための戦略として、その発話の背後に話者の信念を見出そうとする。そして話者も少なくとは自分と同程度には合理的な存在であるはずで、だとすれば話者の信念体系もまた自分と同程度には合理的なはずだ――論理的に整合的で、現実世界を適切に認識しているはずだ、と想定する。それももちろん賭けであるが、この賭け以外には、未知の発話者の発話(らしきもの)を解釈するための有効な戦略はほとんど考えられない。これが「寛容の原理」である。発話を理解するためには、その発話の体系性を支えている、発話者の合理的主体性を想定してかからねばならない。デイヴィドソンの言う「全体論」とはつまりそういうことである。これは発話を信念に還元するということではない。そもそも信念自体は観察不能であって、想定するしか――それも個々の信念をというより、その具体的な細部は不明だが、全体としては秩序立っているだろう、信念体系を想定するしかないのである。(続く)


真理と解釈

真理と解釈

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)

合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works)