「リバタリアニズム」概念について

 リベラリズム理論の文脈においては、前章で見たようなひ弱な/他律的リベラリズム、あるいはその法的・政策的側面を重視する保守的自由主義の場合には、安定性の方が重視されます。人間を取り巻く環境は多層的であるわけですが、保守的自由主義者は人を取り巻く人工環境、そして社会的制度・慣行に対しても、どちらかと言えば安定的であること、固定していること――「伝統」が確立していること――を求めます。それに対して、政治的側面を重視する逞しき/自律的リベラリズムの場合には、社会的制度・慣行のレベルでは安定性よりも可塑性を重視します。社会的な制度、慣行、ヒューム流に言えば「コンヴェンション」は、短期的には、また個人にとって、つまりミクロ的には安定して不変でなければならないが、長期的、多くの人々を含む社会のレベルでは、つまりマクロ的には可変的でなければならない、と考えます。ちなみにいわゆるリバタリアニズムの特徴は、伝統や公共性に対するこうしたデリカシーの欠如であると言えましょう。

拙著『「公共性」論』NTT出版、237-238頁。


 「伝統や公共性に対するこうしたデリカシーの欠如」について。


 日本におけるリバタリアニズムのイメージは相当程度ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』によって支配されているように思われる(というか、ぼく自身がそうだ)が、これでは少々リバタリアニズムのイメージが偏ったものになってしまうおそれがあるだろう。
 そもそもノージックリバタリアニズムを純然たる思考実験として行っている色彩が強いのだが、それを割り引いたとしても、彼はリバタリアニズムを寛容の思想として扱っている。
 彼は人が人を差別する権利を個人レベルでは認める。私企業が従業員の採用において、あるいは取引先の選定において、恣意的で偏見に基いた振る舞いをしても別に構わない。それは私的な個人が友だちや恋人を選ぶ際に、「公平」であることを求められないのと同様である。
 私的な個人・団体が好きな相手をえこひいきし、嫌いな相手に無関心であったり不利益取り扱いをしたりする自由は厳然としてある。しかしアナーキストではなく、最小国家論者であるノージックの場合には、こうした「差別の自由」は、相手の自由を拘束しない、強制しない、暴力を加えない限りにおいてのものである。人に何らかの強制を行いうる主体は国家だけであり、その際国家は人を差別的に取り扱ってはならない。
 実はノージック的世界において、人が他人を差別してよいのは、差別された相手がよそに行って、自分を差別しない、あるいは自分をえこひいきしてくれる別の相手を見つけるチャンスが残されているからなのである。


 だからノージックは、リバタリアニズムの根幹に私的所有権があることは承知の上で、私的所有権が嫌いな人間にも、私的所有を嫌いでいる権利のみならず、その嫌悪を実行に移す権利を認める。私的所有の権利を大事に思っていて、その原則の下で生きている他人の権利を侵害しさえしなければ、である。つまりよそに行って同好の士と勝手にやる分には構わないのである。


 しかしこのようなほぼ無制限な寛容を、すべてのリバタリアンが共有するわけではない。長期的には、自由な市場が差別を解消していくことをノージック、あるいはミルトン・フリードマンは信じていた。しかしおそらく現実はそう簡単なものではない。普通のリベラリストやその他ノン・リバタリアンはこの現実認識をもってリバタリアンを批判してきた――ぶっちゃければリバタリアンは「知的お花畑に住む善意の人々」だというわけだ。しかしこの現実認識を共有するリバタリアンも存在する。彼らは私的所有権の否定者に対する寛容までは持ち合わさない。


 言ってみればフリードマンノージックリバタリアニズムは「都会のリバタリアニズム」である。それに対してもっと土着的でどろどろした「田舎のリバタリアニズム」というべき潮流もまた存在するのだ。「都会のリバタリアニズム」の特徴は伝統に対するノンシャランスであるのに対して、「田舎のリバタリアニズム」はあるローカルで明確な伝統に、あるいは個人的なファナティシズム(たとえばアイン・ランドの個人崇拝的カルト)などに根ざしているようである。
 言わずもがなであるが、そういう「田舎のリバタリアニズム」は傍目からは、あるいは帰結主義の観点からすれば、ある種の保守的コミュニタリアニズムとほとんど区別がつかない。


追記
 ある種の都会的リバタリアンは、差別が嫌いであるにもかかわらず、人が私生活においては差別を行う権利を認める。ただ、広い世間ではそういう了見の狭いイケてない奴らは、嫌われ疎まれ相手にされない(競争に勝てない)だろう、と本音では思っているのだ。


 以上の理論はしかし、アナルコキャピタリズムにはどの程度当てはまるか、定かではない。


「公共性」論

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アナーキー・国家・ユートピア―国家の正当性とその限界

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