はだか祭りでしゃべれなかったこと

 あれからいろいろ考えて「疎外論それ自体は必ずしも危険というわけではなく、否定する必要もない」という結論に達した。しかしこの結論にたどり着くためには、マルクス主義哲学の枠からは出る必要があるような気がする。
 これは基本的には、クワインデイヴィドソンの問題設定の中で論じた方が筋がよいような気がする。かつて大庭健さんは『はじめての分析哲学』において「クワインを物象化論的に読む」を遂行したわけだし、クワイン自身が物象化reificationという言葉を用いているわけだし。(ただし日本語の「物象化」はマルクス主義の手垢がつきすぎたため、クワイン翻訳者たちはこれを避けて「物化」「実体化」といった訳語を用いている。仕方ないね。)


「「疎外」「物象化」といった言葉遣いは疎外されない、物象化されない「本来性」とでもいうべきエレメントを想定してしまうことになるのでは? 結局それは「本来の人間性」といったものを想定する独断的形而上学につながってまずいんじゃないの?」という直感的疑問の声が多くの人から上げられたしぼくも上げてきたわけですが。
 何でこんな声が上がったかといえばもともと疎外論だの物象化論だのを言い始めた人々というのはマルクス主義の伝統の中では旧正統派というかレーニン的、あるいはスターリン的ないわゆる「反映論」だの「素朴実在論」なる「独断的形而上学」を批判すべく、こういう議論を提起してきたはずな訳で。
 ということは、上記の疑問は「木乃伊取りが木乃伊」「本来目指した理想はどこいった」的なものであったことをまず思い出さないといけない。
 それに対して正統派の方から投げられた反批判は、まあ「主観主義」「相対主義」の危険を指摘するものだったといってよいだろう。これはこれで、まあ根拠がなかったわけではない。


 ところでクワインが「物(象)化」、あるいは「翻訳の不確定性」とか「指示の不確定性」とか言うときに、彼は相対主義にも反実在論にもコミットしていないわけだが、なぜそのような立場が可能となるのだろうか? 
 クワイン、そしてデイヴィドソンホーリズムというのは大雑把に言えば「言語は個々の命題や表現のレベルにおいて、個々の物事に対応しているのではなく、全体としての言語が、全体としての世界に対応していると考えられねばならない」ということになる。この「言語」というのはことにデイヴィドソンの場合には、非常に強い意味での「全体」である。クワインの初期の「根源的翻訳」論の場合には、まだ「全体」としての言語はたとえば「英語」や「日本語」によって例化されて、「翻訳」というのはそうした言語間でのことと解釈される余地もあったが、デイヴィドソンが「根源的解釈」とか言い始めて以降は、あえて「全体」というならそれは人間の言語活動全体のことであり、翻訳だの解釈だのといったことも、いわゆる常識的な個別的全体としての「言語」(たとえば「日本語」と「英語」)間の問題ではなく、ありとあらゆる個別の表現間の問題となる。だから後期デイヴィドソンは「いわゆる言語なるものは存在しない」とか何とか言ってるんだろう。
 そしてこの意味での全体としての言語は、総体としてはおおむね正しくなければならない。それは大体において正しいはずだ。そう想定しなければ、そもそも個別の具体的な表現について、その真偽を問題とすることさえできなくなってしまうし、その部分と部分との間で「翻訳の不確定性」を云々することさえできなくなってしまう。
 ――以上のように考えるならば、不完全情報の世界の中で生きる限定された合理性しか持たない主体たちが、「世界の本来のあり方」を正しく捉えられずに、その限りで「疎外」されていることと、にもかかわらず「世界の本来のあり方」を想定できること――というより、せざるをえないことに、不思議なところはない、ということになる。
 しかしこう考えると、「疎外・物象化からの解放」はやはりありえないということになるな。

はじめての分析哲学

はじめての分析哲学

真理を追って

真理を追って

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works)