フランス調査旅行からお帰りになったばかりの小田中直樹先生から

御葉書をいただく。(まだお読みいただいていないそうですが。)

「入門書はひとりでかくべきものであり、それを実行したあんたは偉い!!」

 ありがとうございます。小田中先生も

ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう

ライブ・経済学の歴史―“経済学の見取り図”をつくろう

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

歴史学ってなんだ? (PHP新書)

をひとりで書いておられますね。
 でも義理としがらみに負けて?
西洋経済史学

西洋経済史学

に寄稿しちゃいましたけどね。


 冗談はさておき、なぜ「入門書はひとりでかくべきもの」なのか? たとえば小田中先生の上記三冊を考えてみよう。単著『ライブ』は学部初級レベルの教科書、新書『なんだ?』は一般向け啓蒙書・教養書であるのに対して、共著『西洋』は学部上級・大学院初級レベルの教科書である。こうなっていることには理由がある。


 たとえばこういう説明も可能だ。
――大学院レベルの教科書は、ともすれば一個一個の章がそれ自体ひとつの専門研究とみなしうるほどに質量ともに充実した記述が必要となり、単独の著者で一個の書物全体を書き下ろすことが極めて困難である。それに対して、より薄く軽いものが許される学部初級教科書・教養であれば、単著でも容易に書き下ろせる。


 上記の説明だけでは、入門書(学部初級・教養レベル)が一人で書かれ易い理由は分かっても、書かれねばならない理由がわからない。しかしその場合は、共著の執筆における調整コストのことを考えてみればよい。入門書の場合、内容そのものの執筆が上級教科書よりは容易になるとしよう。(本当にそれでいいのか? は後で考える。)しかしそれでも、複数の著者が分担した論述を一著にまとめ上げる編集上の労力は、上級書とそれほど変わらないだろう。上級書の場合はそれでも、編集コストを上回るメリット――書く執筆者が自分の専門を生かせる――が分担執筆にあるのだろうが、入門書の場合にはそのメリットが少なくなる。


 しかしこれだけでは実はまだ不足だ。本当に入門書は「薄く軽い」ものでよいのだろうか? 理想を言えばむしろ入門書は、量的に短く、本の厚さが薄い分、その内容は「濃い」ものでなければならないのでは? そのように考えれば、入門書の執筆も決して安易な作業ではありえず、専門家たちの分担によってなされるべきではないのか? 


 そこで小田中先生の3冊を見てみよう。
 そうするとまず気づかれることは、前2単著は全体を一通り通読すべき「読み物」として書かれているのに対して、共著の方は必ずしも通読を前提とはしておらず、適宜必要なところを拾い読んだり、レファレンスとして用いるだけでも構わない、つまり常日頃手元において研究ガイドとすべき「ハンドブック」として書かれているということである。
 入門書は、たとえ教室において教科書として用いられようとも、それ自体単独で、読者が自力で通読できるしまた通読したくなるようにかかれていなければならない。そのためにはひとりの著者によって一貫した構想の下、統一された文体で、ひとつのリズムに乗って書かれなければならないのだ。


 しかし本当のところは大学院レベルでも、ハンドブックだけではなく通読されるべき教科書が必要であり、そのような教科書は原則的には単著でなければならないのだ。


 というわけで小田中先生、柴田三千雄先生の向こうを張った大作教科書をひとつお願いします。『近代世界と民衆運動』からもう20年以上たっちゃったからね。


 あとやはりhamachan先生がお嘆きの「労使関係論の衰退」も、氏原正治郎以降の大先生方が誰もまともに教科書、それも単著の大作教科書を書かなかったことと無関係ではないだろうね。(それに比べて最近労働法は啓蒙書も基本書も実務書も充実してますね。)


――というといろいろ問題はあってもやはりギデンズは偉いということになるのか。