「労使関係論」とは何だったのか(10)

 身も蓋もなく言えば日本の労使関係論、ことに「東大学派」(ならびにその周辺の)労働問題研究の失敗とは、市原博も言うとおり、あまり深く考えることなく日本労使(労資)関係研究の究極のテーマを「日本資本主義分析」とし、そして日本資本主義の中軸ないし先端部分を重工業大経営としてしまった、というところによるところが大きい。
 東大学派の場合は宇野学派の影響が濃厚であり、それもあって日本資本主義、ひいては日本労使(労資)関係の特徴を「封建遺制」として理解することを拒む強い傾向がある時期以降目立つが、無論講座派的な問題意識も皆無ではなく、「封建遺制」的発想による議論もなくはない。たとえば氏原以降の世代によって乗り越えられようとした大河内一男の「出稼型労働力」論はまさしく「賃労働における封建制」論であったし、隅谷三喜男都市雑業層をめぐる議論もその延長線上にあった。しかしながら講座派的な、日本資本主義分析において農村、土地所有制度を「基底」として重視する立場においても、重工業大経営はいわば「先端」としてある種の特権性を与えられていたには違いない。
 いずれにせよそこには古いマルクス主義のドグマ、すなわち、資本主義は農業・商業主導から製造業主導へ、また製造業においても軽工業から重化学工業主導へ、という風に単線的に発展していく、という図式が前提とされていた。とは言えこれはマルクス主義だけのものではなく、「近代経済学」「経営学」を含めて広く受容されていた常識であったし、経験的にも「ぺティ=クラークの法則」として知られる「様式化された事実」がある。問題は、第一にその理論的根拠が薄弱なことであり、第二に「ぺティ=クラークの法則」によっても経済は製造業主導から商業・サービス業主導へと移行するはずなのに、それは労働問題研究において無視され、あくまでも製造業大企業が日本労使(労資)関係研究において焦点化され続けた、ということである。
 重工業大経営、ことにその正規従業員を「中軸」「典型」とすることによって、労働市場研究においても「内部労働市場」が焦点化され、「外部労働市場」は非典型(非正規)労働者とともに関心において周辺化された。また同時にそのことによって、あくまでも関心の焦点がブルーカラー、製造業現場労働者層の労務管理と労使関係にあったにもかかわらず、この層が正規従業員として「内部労働市場」に取り込まれ、ホワイトカラー――職員層との差異が強く意識されなくなったこともまた注意すべきである。もともと職員、ホワイトカラーへの関心自体が希薄であったわけだが、その希薄さに対する警戒、ホワイトカラー自体を研究対象としなければならない、という問題意識は、「ブルーカラーのホワイトカラー化」、つまりはブルーカラー、ホワイトカラーを問わず基幹従業員の長期雇用・内部昇進制の確立、人事労務管理における工職差別の撤廃、労働組合の工職混合化によって大幅に解消されてしまったのではないか。
 「軽工業→重工業」の仮説、それに関連しての「一般的熟練→企業特殊的熟練」の仮説と並んで、いま一つ注意しておくべきは、熟練に関する「一般―特殊」という質的な差異と並んで、「熟練―不熟練」といういわば量的な差異への関心である。「軽工業→重工業」説と「一般的熟練→企業特殊的熟練」説を包括する独占段階照応説においては、氏原の「トレードからジョブへ」のという議論に明らかなように、単純に労働者の熟練を量的に測るよりは、その質的な転換に関心を向けていた。しかしながら企業外在的な独立性の高い親方労働者の万能型熟練(トレード)から、職務(ジョブ)ごとに断片化された単能型熟練の組み合わせへの移行、という図式は、ある意味で後のネオマルクス主義疎外論的労働過程論の先取りと言えなくもない。
 正統派(旧左翼)のマルクス主義者は、どちらかといえばこの時期までは「資本主義の高度化に伴い、労働者の熟練も深化、向上する」との『資本論』由来のあまり根拠のないドグマを受容していたので、こうした議論の批判的ポテンシャルはそれなりに高かった。しかしながら言うまでもなく、「熟練の解体」仮説も単なる定向進化説、単線的発展説になってしまえば、それもまた無根拠なドグマに堕する。
 非常におおざっぱにいえばマルクス経済学には、労働は資本によって代替されて、産業は労働節約的・資本集約的となり(資本の有機的構成の高度化)、労働供給は過剰基調となる(産業予備軍)、という発想がまず強固にあった。それに加えてネオマルクス主義や実証的労働問題研究においては「熟練の解体」という問題意識が、つまり資本主義の高度化に伴い、熟練労働が不熟練労働によって代替される、という想定があった。しかしながらこの二つの傾向が果たしてどれだけ強固に成り立っているか、について疑問をさしはさむことが可能であるのみならず、この二つの傾向同士がどのように対応しあい、関係しあうのか、についても検討が必要になる。どのような生産関数を、またどのような技術変化を想定するによって、様々な可能性が考えられる。