「労使関係論」とは何だったのか(9)

 おそらく中西洋は最も早い時期に、最もはっきりと宇野段階論を「蓄積様式論」としてではなく「政策論」として解釈することを提唱した一人である。のみならず宇野の三段階論――経済学を原理論、段階論、現状分析の三段階に分ける方法論についても、外野の気安さからか宇野派の大勢に反して「原理論ではなく段階論こそが宇野三段階論体系の中核である」と言ってはばからなかった。
 中西によれば宇野段階論はマックス・ウェーバーの理念型論の応用である。つまり「資本主義の段階」とは実体概念というより社会科学的な抽象の産物である、とする。ただしその抽象的なアイディアは、単なる社会科学者の脳内の産物であるにはとどまらず、政策担当者の思念に取り込まれ、政策を領導することによって実体的な根拠を獲得する、というわけである。
 宇野学派の主流の解釈は、そうした政策理念は階級的利害――支配的資本の所有者の利害――によって規定される、という形で、伝統的なマルクス主義の「土台−上部構造」図式に適合的な形で処理されるわけであるが、「支配的資本の蓄積様式」なる発想がいかがわしいものとなってみれば、政策理念の自律性の余地を認める「政策論」的――知識社会学的段階論理解の方が、つぶしがきくように見える。
 ただし政策論に照準することが、どこまで段階論の根拠づけとして機能してくれるのか、については議論なしとはし得ない。野村正實の中西『基礎過程』への書評にも見られる通り、中西自身は政策論を基準とする段階論・時期区分論に一貫した形を与えることに失敗している。
 なぜだろうか? いくつかの理由が考えられるが、ひとつには段階論の照準する水準を理念だとした場合、段階間移行の論理が導き出しにくくなる、ということが考えられる。無理やりに作ればそれこそ「理念の自己展開」とでもいうべき、古いヘーゲル主義の観念論風の、目的論的な発展史としての哲学史の亜流になってしまう。それは言うまでもなく、マルクス主義的な発展段階論の逆転でしかない。
 ここでミシェル・フーコーの『知の考古学』での議論を想起しよう。フーコーの仕事は、ことに『言葉と物』『監獄の誕生』などは、まさに理念のレベルに照準した一種の知識社会学的段階論として読めてしまう。しかしフーコー自身はそのような理解を拒んでいる。『知の考古学』においてフーコーアナール学派の仕事などを念頭に置きつつ、近年の歴史学においては経済史、社会史のレベルではむしろ「連続」が発見されるのに対して、理念や言説のレベルにおいては「断絶」が発見されるようになってきた、と論じている。これを真に受けるならばわれわれは、段階論は実体――マルクス主義的にいえば「土台」の歴史によりはむしろ精神史、言説――「上部構造」の歴史の水準にこそ照準を当てるにとどまらず、それと実体の歴史との間に、無理に対応を探すべきではない、ということにもなる。「土台」には急激な構造転換などはめったに起こらないが、「上部構造」にはありうる、と。
 なぜか? その問題についての一般論を展開する余裕はここではないが、当面の課題である資本主義の発展段階論の見直しに、また東條由紀彦の用語法での〈近代〉から〈現代〉への移行に即して考えてみよう。


 東條のいう〈近代〉から〈現代〉への移行とは、オーソドックスなマルクス主義的にいえば、自由主義段階から帝国主義段階、あるいは19世紀資本主義から20世紀資本主義への移行のことである。過去のマルクス主義歴史観では、19世紀においては少なくとも先進国イギリスにおいて、「小さな政府」の下形式的な自由と平等を実現した資本主義が、20世紀以降独占の進行と国家介入の増大によって不純化した、というストーリーが描かれたが、このような図式は大幅に修正されてきた。
 労働問題研究に関連する限りでいえば、旧来の図式は、19世紀の自由主義の下での形式的対等と実質的不平等から、20世紀の大企業と福祉国家主義による実質的対等への移行、というストーリーであった。これに対して中西の段階で既に、19世紀の労使関係の身分的性格、なおかつそれは「封建遺制」と呼びうるようなものではなく、自由な労働市場そのものが身分制を内包し、それによって支えられていたことが明らかになっていた。ここで身分制とは単なる不平等にとどまるものではない。その点について日本に焦点を当てて掘り下げたのが東條である。東條によれば〈近代〉――それに対応するいわゆる自由主義段階において社会はいまだ身分制社会である。諸身分はそれぞれに異なる、相対的に自律した規範のもとで組織されている、意味論的に独立した小宇宙を構成している。この時代の身分制が前〈近代〉の身分制――例えばいわゆる封建制――とは異なっているポイントはどこか? 社会構成原理としての「契約」の有無ではない。封建的身分制もまた、契約とともにあった。契約それ自体は身分関係と矛盾はしない。近代的な雇用関係もまた、自由意思による契約を通じて、ある種の身分関係を引き受けること、に他ならない。それは諸身分間の関係の論理における微妙な変化である。東條の理解では、諸身分間の隙間に「資本」――近代的な意味での企業、そしてまた国家が登場してきて、身分間関係を支配する主要な力となり、更には諸身分内に浸透しようとしてくるのが〈近代〉の特徴である。そして〈現代〉とは、この企業や国家の浸透力がある臨界を超え、身分ごとの独立した小宇宙が決定的に崩壊し、社会全体が規範を共有していくようになっていく時代である。
 ここにおいて重要なのは生産力の実体、「土台」ではなく「上部構造」というべき規範と世界観である。