なんだか大人げないことをしている人たちがいるようだが

 東さんは煽った。常野さんは乗った。実際に乗られてみて東さんは「煽りが軽率だった」と反省して小役人的対応をとった。東さんの対応には手続き的なレベルではさしたる問題はないが、度量の狭さを批判されてもおかしくはない。
 しかしこんなことをしたところで常野さんの名が上がるわけではないし、もちろんこんなことはどちらにとっても「いらん苦労」で「勉強」「芸の肥やし」にはならないことは明らか。
 何より常野さんはまず最初にやるべきこと、つまり東さんの議論とデリダの議論を突き合わせてきちんと検討する、ということを自分でしていない。「卑怯」とはいわない。その呼びかけに応じてそれっぽいことをやってくれてる人が少しは出てきたからだ。しかしせっかくそういうものが出てきたのであるから、自分でデリダと東をきちんと読みこまないまでも、援軍の人たちの議論をきちんと咀嚼して、自分なりに何かまとまったことを言うべきであった。


 常野さん、こんなことばっかりしてたら、英語圏であろうが日本語圏であろうが「一流」になんかなれっこないよ。こんなことしてる暇があったら、論文書いて投稿するとか、知り合いの編集者さんに原稿読んでもらって、企画きちんと立てて売り込んで、とにかくちゃんとやろうよ。ちゃんとやろうと思えばやれる人なんでしょうあなたは。今だって語学教師としてはそれなりの自負があるんでしょう。だったら研究者として、あるいはライターとして、まともな仕事をしようよ。
 ネットジャンキーでブログがやめられないんだったら、こんな下らない煽りじゃなくて、それ自体活字にできてお金を出して読んでもらえるようなコンテンツをきちんとあげようよ。


 それから、常野さんのお友達のみなさんは、面白おかしく常野さんを煽るんじゃなくて、きちんと常野さんの応援をしてあげるべきだったんじゃないか。もちろん、一緒に東さんの授業に押し掛けるのは、応援とは言わないよ。そんなのは常野さんのためにもならない。友達なら常野さんの軽率さをいさめたりしかったりしてあげないといけない。


 こういうことであれば、やっぱりぼくは以前書いた「常野のような馬鹿」という言葉づかいが、軽率ではあったが全く不適切であったわけではないのだな、と思わざるを得ない。ほんとに「やればできる子」かもしれないのにもったいないよ。

追記

 もちろん東さんの歴史修正主義についての『リアルのゆくえ』内での発言は軽率だったと思うし、大塚さんのいらだちにぼくもほぼ共感する。より抽象的なレベルで東さんの歴史哲学についてのコメントは、拙著『モダンのクールダウン』で開陳した。

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

モダンのクールダウン (片隅の啓蒙)

 しかし「リベラル・左翼系で構築主義に親和的な論者が歴史修正主義に対してガードの甘い発言をしがちであること」についてあれこれ考えたければ上野千鶴子先生こそがまず検討されるべき対象でしょうに。
ナショナリズムとジェンダー

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