id:boxman氏の「おめーらのアングルにはのれねーよ」てなぼやきで一部で有名な本誌を紀伊国屋の店頭で見かけた。
- 作者: 荒川 弘
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2008/05/26
- メディア: ムック
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まだきちんと読んでいないのだが、とりあえず荒川のあらゆる意味での――人間として、創作者として、プロとして、社会人としての――まっとうさに気圧される。やはり日本まんがの2000年代をしょってたつのは荒川弘とよしながふみなのか。『PLANETS』インタビューでベタほめしたので、『Invitation』時評では少し批判的なコメントをしたのだが、なんつうかあれは揚げ足取り――とはいかないが、枝葉末節というか、『ハガレン』でさえ足を取られている、日本まんがにおいてあまりにも当たり前の欠落について、メジャーな良作としての『ハガレン』をダシにして語ってみただけだものなあ。
基本的には『ハガレン』は、批評の対象にはもちろんなりうるし、しがいがあるのだけど、批評を必要としていないのよね。『ナウシカ』はあえていうと「必要とする」部類の作品で、長谷川裕一の場合は、基本的には不必要なんだけど、まあマイナーだからついつい「紹介したい」という欲望をそそられてしまう。『エヴァンゲリオン』はもう、「作品」じゃなくて、そのうちに批評をも組み込んで成長し続ける「産業」だし。
エヴァ特需以降まんが・アニメ批評市場はたしかにひろがったけど、こういう「批評を必要としない」作品に対する向き合い方は、きちんと考えておいた方がよい。これはまんが・アニメ批評だけじゃなく、エンターテインメント(含む小説)批評全般について言えることでしょう。
ただこのインタビューでの荒川の――というよりインタビューアーの藤本由香里の「少年まんが」認識には、若干異論がないでもない。藤本が指摘し、また荒川自身も自覚している通り、『ハガレン』はジャンプ的「強さのインフレ」問題を見事に回避しているわけだが、「力押しではなく、環境の制約の中での頭脳戦」はもちろん、荒川が少年まんがに持ち込んだものではない。
『少年ジャンプ』における「強さのインフレのマニエリスム」はかなり古い起源をもつものだが、誰も目にもはっきりそれとして確立したのは車田正美『リングにかけろ』であるし、広く認識されたのは鳥山明『ドラゴンボール』ということになろうが、このパターンは実はある時期以降、ジャンプにおいて――そして少年まんが一般においても、必ずしも(少なくとも唯一の)主流ではなくなっている。はっきりとそれが打ち出されたのは、わかりやすいところで荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険』第23部以降、すなわち極めて限定された超能力としての「スタンド」の出現以降であり、あるいはまた冨樫義博『幽☆遊☆白書』の「仙水編」以降である。このあたりから、「制約の中での頭脳戦」を基調とする作品が急速に増え、広く受け入れられるようになっている。おそらくは福本伸行のメジャー化も、この潮流のなかに位置づけることができるだろう。
ただしこうした展開が、藤本が「力のインフレ」という言葉で問題としようとしているある種の病理(?)への十分な対抗力となりえているかどうかは、確かに疑わしい。たとえば頭脳戦を前面に出した冨樫の『HUNTER×HUNTER』が、にもかかわらず、ことに「キメラアント」編以降「力のインフレ」にあっさりはまってしまって迷走していることは印象的である。
さてそれでは、何が問題なのか。
この他に目についたところでは、福満しげゆきを論じた杉田俊介のエッセイの補注で、東浩紀のエロゲー論や伊藤剛の美少女まんが論に、性暴力や労働の問題が回避されていることの指摘があり、興味深い。たしかにこれは「ないものねだり」ではすまされない論点である。