『ユリイカ』2008年6月号「特集:マンガ批評の新展開」

 id:boxman氏の「おめーらのアングルにはのれねーよ」てなぼやきで一部で有名な本誌を紀伊国屋の店頭で見かけた。

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

ユリイカ2008年6月号 特集=マンガ批評の新展開

 評論はともかく荒川弘島田虎之介のインタビューがあったので即買い。
 まだきちんと読んでいないのだが、とりあえず荒川のあらゆる意味での――人間として、創作者として、プロとして、社会人としての――まっとうさに気圧される。やはり日本まんがの2000年代をしょってたつのは荒川弘よしながふみなのか。『PLANETS』インタビューでベタほめしたので、『Invitation』時評では少し批判的なコメントをしたのだが、なんつうかあれは揚げ足取り――とはいかないが、枝葉末節というか、『ハガレン』でさえ足を取られている、日本まんがにおいてあまりにも当たり前の欠落について、メジャーな良作としての『ハガレン』をダシにして語ってみただけだものなあ。
 基本的には『ハガレン』は、批評の対象にはもちろんなりうるし、しがいがあるのだけど、批評を必要としていないのよね。『ナウシカ』はあえていうと「必要とする」部類の作品で、長谷川裕一の場合は、基本的には不必要なんだけど、まあマイナーだからついつい「紹介したい」という欲望をそそられてしまう。『エヴァンゲリオン』はもう、「作品」じゃなくて、そのうちに批評をも組み込んで成長し続ける「産業」だし。
 エヴァ特需以降まんが・アニメ批評市場はたしかにひろがったけど、こういう「批評を必要としない」作品に対する向き合い方は、きちんと考えておいた方がよい。これはまんが・アニメ批評だけじゃなく、エンターテインメント(含む小説)批評全般について言えることでしょう。


 ただこのインタビューでの荒川の――というよりインタビューアーの藤本由香里の「少年まんが」認識には、若干異論がないでもない。藤本が指摘し、また荒川自身も自覚している通り、『ハガレン』はジャンプ的「強さのインフレ」問題を見事に回避しているわけだが、「力押しではなく、環境の制約の中での頭脳戦」はもちろん、荒川が少年まんがに持ち込んだものではない。
 『少年ジャンプ』における「強さのインフレのマニエリスム」はかなり古い起源をもつものだが、誰も目にもはっきりそれとして確立したのは車田正美リングにかけろ』であるし、広く認識されたのは鳥山明ドラゴンボール』ということになろうが、このパターンは実はある時期以降、ジャンプにおいて――そして少年まんが一般においても、必ずしも(少なくとも唯一の)主流ではなくなっている。はっきりとそれが打ち出されたのは、わかりやすいところで荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険』第3部以降、すなわち極めて限定された超能力としての「スタンド」の出現以降であり、あるいはまた冨樫義博幽☆遊☆白書』の「仙水編」以降である。このあたりから、「制約の中での頭脳戦」を基調とする作品が急速に増え、広く受け入れられるようになっている。おそらくは福本伸行のメジャー化も、この潮流のなかに位置づけることができるだろう。
 ただしこうした展開が、藤本が「力のインフレ」という言葉で問題としようとしているある種の病理(?)への十分な対抗力となりえているかどうかは、確かに疑わしい。たとえば頭脳戦を前面に出した冨樫の『HUNTER×HUNTER』が、にもかかわらず、ことに「キメラアント」編以降「力のインフレ」にあっさりはまってしまって迷走していることは印象的である。
 さてそれでは、何が問題なのか。


 この他に目についたところでは、福満しげゆきを論じた杉田俊介のエッセイの補注で、東浩紀エロゲー論や伊藤剛の美少女まんが論に、性暴力や労働の問題が回避されていることの指摘があり、興味深い。たしかにこれは「ないものねだり」ではすまされない論点である。