今更ながら疑似科学について

 以前にも触れたが、今回にせよ、菊池さんの粘り腰には本当に頭が下がるのだが、ここでいくつか備忘録的に思い出したことを書き留めておきたい。とりあえず断片的な記憶を断片のままに走り書きで引きずり出すだけなので、ピンときた方がおられれば、めいめい補足、補完していっていただきたい。


 党派的な話を持ち出して恐縮なのだが、たしか安齋先生は日本科学者会議で活躍しておられて、古い言葉でいうと代々木系、日本共産党寄りの立場を取られていたと思う。そしてさらに古い言葉を使うと、70年代から80年代にかけて日本でもその立場を確立させた「科学批判」「反科学」は反代々木系、「反戦平和」、ノンセクトラディカルの系譜に連なる人々に支えられていたはずだ。故高木仁三郎氏などはその代表であり、この時代以降の反原発運動の理論的バックボーンを提供していたのも、こうした人々であろう。米本昌平氏もまた、こうした人脈に連なる一人であったはずだ。クーン、ファイヤーアーベント以降の「新科学哲学」の日本への紹介・導入もまた、このような動きと無関係ではなかった。
 何が言いたいのかというと、もちろんあの時代の「科学批判」には重要で積極的な意味があったとは思うのだが、たとえばそこで提起されたたとえば「知の権力性」「無知の権利」といったコンセプトには当然ながら負の面、副作用もあったのだ。厳密な意味での「科学批判」「反科学」は非科学的でも反知性主義でもあり得ないのだが、権力としての科学への自己批判の反動として、反知性主義や蒙昧へのある種の寛容さを発揮することもあったのではなかろうか。そしてその周辺部では当然ながら「精神世界」と境界を接してもいた。「オルタナティブ」という言葉づかいは言うまでもない。
 それ以外にもあの当時、まだ日本共産党が元気だった時代には、「科学的社会主義」という言葉が生きており、その特殊「科学的社会主義」的、つまり正統派マルクス主義的という意味で「科学的」という言葉を乱用する人たちがひどくうっとうしかった。彼らのせいである意味「科学的」という言葉自体が一種のダーティーワードになってしまっていた、という事実もある。「反科学」という強い言葉をラディカルな科学者の一部が使っていたのには、そういう事情も絡んでいただろう。それに対して正統派旧左翼の科学者たちも、厳しい緊張感をもって臨んでいた。一部には「科学批判」と「ニューサイエンス」をいっしょくたにして批判するような勇み足(根拠皆無ではなかったとはいえ、大体においては勇み足だ)もあった。またこの時代、日本共産党は決して日本の原子力政策を手放しで肯定してはいなかったが、「反原発」といった言葉づかいは避けていたはずだ。



 あの時代に比べると、確かに今はゆるゆるである。それが悪いことばかりとは言えないが、総体として見ると、やはり余り状況は芳しくない。旧正統派左翼と旧ノンセクトとの間の深い溝が90年代以降急速に埋まっていったのも、積極的な歩み寄りというよりは、左翼総体のゲットー化によって仕方なく、という色彩が強かった。「正統派」が己の正統性に自信を喪失した、ということもあろう。
 しかしながらその中で、なんだか誤った相対主義的「寛容」が瀰漫しつつあるのは、やはりまずいのではなかろうか。
(以前に書いたこれなぞも、笑うしかないが笑いごとではない。)


 確認しておくが、疑似科学問題と「懐疑的思考」とか真理の相対性とかは、基本的には無関係だ。大概の疑似科学池内了先生のいう第一種、第二種)は科学に寄生する詐欺師にすぎず、決してオルタナティブをまじめに指向する他者として尊重に値するものではない。こいつらは弾圧してかまわない、というよりすべきだ。こういう連中に対しての「寛容」は、「他人に迷惑をかけない範囲でなら、好きにしていいよ」というものでしかありえない。こいつらと真面目に対話する必要はない。餌をやってはいけない。
(池内先生のいう第三種については、むしろ疑似科学とは別のもの、どちらかというと科学サイドの問題として扱った方がよい。)