手紙


 ××先生

 ○の父親でございます。いつも娘がお世話になっております。

 さて私、仕事柄いろいろ雑多な調べ物をすることが多く、公衆衛生や感染症についても素人ながら少しは気にかけて勉強してまいりましたが、最近、大変興味深い本を発見しましたので、一部お贈りいたします。

 岡田晴恵編『強毒性新型インフルエンザの脅威』(藤原書店)
http://www.bk1.co.jp/product/2697716?partnerid=p-inaba3302385
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894345277/interactivedn-22

 現在話題となっているいわゆる「鳥インフルエンザ」につきまして、第一次世界大戦期のいわゆる「スペイン風邪」との比較において簡単に解説し、その危険性に注意を喚起する本です。「鳥インフルエンザ」は今までのところ封じ込めに成功し、特に日本他先進国では人への感染は見られませんが、本書その他の専門家の見解によれば、いったん本格的に流行すれば「スペイン風邪」ないしそれ以上の世界的な惨禍を巻き起こすであろう、とのことです。(「スペイン風邪」は弱毒性ですが、現在の「鳥インフルエンザ」は多臓器不全を引き起こす強毒性です。)
 この本格的な流行は、いつなんどき起きても不思議はありません。そのため、普段からの準備が民間レベルでも大変重要です。

 お忙しいとは存じますが、たくさんの子供たちをお預かりになる××先生にも、ぜひご一読いただきたいと存じます。時間のない場合は「対策編」である第三部だけでもお読みください。巻末の「備蓄リスト」もあわせて非常に実用的です。
 「鳥インフルエンザ」につきましては、この他にもたくさんの一般向け文献が出ています。興味があればお調べになってみてください。お値段、分量ともお手軽なのは

 外岡立人新型インフルエンザ・クライシス』岩波ブックレットNo.682(480円+税)
http://www.bk1.co.jp/product/2702193?partnerid=p-inaba3302385
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000093827/interactivedn-22

です。

 不躾なお便りを差し上げて驚かれたかとは存じますが、ご海容ください。


                                 2006年9月9日

                                 稲葉振一郎

追記(9月11日)

『SIGHT』VOL.18「Book of the year 2003」所載の拙稿より適宜修正の上抜粋


 ローリー・ギャレット『崩壊の予兆』河出書房新社)を読みながら、つくづくと考えられさせてしまうことがあります。ビョルン・ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』文藝春秋)でも指摘されている通り、世界全体としてみれば平均寿命も、栄養水準も改善してはいるわけです。平均的にみれば、そして絶対水準としては、人類の健康状態は改善している。それは本書でも述べられています。しかしながら格差はむしろ拡大している。でも、これだけならまだよしとしましょう。スミス『国富論』以来経済学は、市場経済のグローバルな発展は、貧富の格差は解消しない、それどころか拡大するかもしれないが、しかし絶対的な生活水準の底上げを可能にする、と主張してきたのですから。問題は、少なくとも世界の一部で、平均寿命の低下、乳幼児死亡率の増加、栄養水準の悪化、致死的感染症の拡大、といった健康水準の絶対的な悪化が、20世紀末以降明らかに見られる、ということです。
 これは何も絶望的な貧困と政情不安の中に置かれた最貧国だけの話ではありません。ザイールのエボラはそれに当てはまるかもしれない。あるいは体制移行の混乱の中でのロシアにおけるエイズ結核、諸々の性病、そして薬物中毒もそうかもしれない。しかしグローバル化の波に乗ってようやく飛躍を遂げようとしているインドのペスト禍は違います。そしてアメリカ合衆国の大病院における院内感染の激発も。
 そして注意すべきは、これは単なる量的な問題ではないらしい、ということです。保健医療政策研究の勉強をしていると、近代化と保健医療の発展に伴い、人類の健康に対する主たる脅威、保健医療のメインターゲットの歴史的な段階論の図式によくお目にかかります。(たとえば広井良典『遺伝子の技術、遺伝子の思想』中公新書『日本の社会保障岩波新書、など。)そういう図式によれば、少なくとも先進国にとっては感染症が主たる脅威である時代は過去のもので、今やガンや生活習慣病などの慢性疾患、そして高齢者ケアが主たる課題である、となります。ところが今や世界規模で「感染症の逆襲」とも言うべき現象が起こっている。
 しかもこの「感染症の逆襲」があぶりだしたのは、先端医療やバイオ技術の高度化の裏で、ごくごく基本的な公衆衛生のインフラストラクチャー――清潔な水、空気や医療現場における殺菌消毒の徹底などといった本当にプリミティブなそれが、途上国でも先進国でも危機的状態にあるらしい、ということです。何でこんなことになるのでしょう? 
 一概に一般化はできませんが、あえて先進国に注目して言うなら、医療の高度化がかえって公衆衛生を危機に追いやるという逆説があるようです。たとえばHIVをやっつけるワクチンは当分期待できないにしても、発症をある程度押さえ込む薬なら、あまりに高価で実質的に先進国でしか使えないとしても、一応実用化されています。しかしそのことがかえって人々の間でエイズへの恐怖を薄れさせ、感染そのものを防ごうとする公衆衛生政策の私生活への介入をいとわせ、かくして(先進国に限っての)エイズ死亡者の減少の裏で、実は確実に(先進国でも)HIV感染者は増えている。
 エイズもエボラも確立した治療法のない死の感染症ですが、その流行を防ぐこと自体は原理的には容易です。19世紀レベルの公衆衛生の流儀で、徹底的にやることをやれば十分なのです。しかし今日それがかえってできなくなっている。これはどういうことでしょうか? 


 実はこれは山形浩生『たかがバロウズ本。』(大村書店)のテーマとも関連します。山形によれば本書の、そしてバロウズ自身のテーマは「自由」です。バロウズは終世自由を求め、その作品においても内容のみならず技法面でも、というか技法面でこそ大胆に自由を追求した――という巷の評価はまあ間違ってはいないが、その自由とは単なるゆるゆるのだらしなさに過ぎなかったのかも知れず、それがある程度の成果、文学的革新としてまとまりえたのも、単なる幸運のならしめるところだったのかもしれない。著者はこう淡々と突き放して論じます。
 ヤク中でオカマで、ラリッたあげく誤って妻を射殺したバロウズは、ギャレットが報告している、現代のアメリカで公衆衛生当局を「セックス警察」と軽蔑し、コンドームなしのセックスにあえて興じる「ベアバッカー」なる一部のゲイたちのある意味先駆者です。しかしこのベアバッカーのイキがり(それはある意味フーコー的な権力への抵抗であるのかもしれませんが)は馬鹿げてはいないでしょうか? そしてバロウズの「自由」もそういうただの愚行ではなかったでしょうか? それは(高価な薬を利用できるがゆえにエイズを恐れなくなったベアバッカーと同じく)所詮は金持ちのお坊ちゃんゆえに可能だった愚行であり、しかもそのイキがりでさえ、実はただのだらしない成り行きまかせを、あとから「理由なき反抗」として劇的に潤色したに過ぎないのではないでしょうか?