結果の平等の方が安いかも?

 きしくんところは基本的にはネタブログなんですが(だいたいなんや「縁の下の力組」て!)
http://sociologbook.net/log/200608.html#eid22
 これはおもろいですね。

何が言いたかったかというと、「実はこっちの方がコストが安いから」っていう根拠で「結果の平等」を擁護する議論ができないか、と考えたってことなんですが、まあそんなことはもっと賢い人たちがとっくにやり尽くしているであろう。

 いやいややり尽くしてないと思う。
 たしかにややこしい制度(それこそ「機会の平等」を保証するような)作るより、右から左にばーんと金だけ動かす方が簡単なのは当たり前で。なんちゅうかややこしい制度は「取引費用」がかかりすぎて、仮にそれが経済学的にいうところの「インセンティブ・コンパティビリティ」をうまく満たしていたとしても、制度の利用者のインセンティブを引き出して効率を上げた分が、制度自体のハンドリング・コストで相殺されるということがありうるんちゃうかと。
 うんと戯画的な例を言えば、成果主義賃金制度を導入しても、成果の測定、査定・人事考課に要するコストが高くなりすぎて、成果主義で従業員ががんばって余計稼いだ分を相殺しちゃう、とか。
 もう少し現実的?な例では、たとえば公的年金やけど、経済理論的にはそら積立方式の方が理に(利に?)かなってるんやけど、制度のハンドリング・コスト、とりわけ資金管理・運用コストがバカにならんちゅう話はたしか高山憲之先生がしとったような。
 賦課方式だと世代間の負担の不公平とかそれによるディスインセンティブとかがあるから理論的にはようない、ちゅうけど、具体的にそういうディスインセンティブによるロスと、積立方式にしたときのハンドリング・コストによるロスと、どっちが大きいんやろか。