29日に出さなかった「教養」という論点について

 来られた方、またmixiでの某氏のレポをご覧になった方はご存じであろう、双風舎の谷川さんに振られたものの「収拾がつかなくなるから」と展開しなかった「教養」という論点についてであるが。
 これは打ち合わせにおいて既に語っており、そこでの感触も悪かったし、本番でも「これはあかんやろ」と思って出さなかったのである。もし出してもあまりいい反応が返ってこなかったろうし、もし出したならほんま収拾がつかなくなる。あくまでも内藤さんの本を作るための企画なんだから。


 ということで、本には載せないその限りで、一応のことを言う。
 そもそもなぜ「しゃべり場」で内藤があれほどの反感を買ったのかというと、ただ単に経済学を知らないから、とか、経済学を馬鹿にしたから、という理由ではない。それはひとえに彼が「クレクレ厨」と化していたからである。
 クレクレ厨のどこがいけないのか? 
 そもそもあの場に職業的経済学者は二人くらいしかおらず、ほとんどは趣味で学んでいるにすぎなかったし、多くは学者でさえなかった。それに対して内藤は、比較的時間に余裕がある学者であるにもかかわらず、経済学の考え方そのものを学んで自力で考え、調べようとの態度を頑として見せず、ひたすら自分の疑問への答えだけを知りたがっていた。そのような態度こそが、他の参加者の反感を買った主因であると言えよう。
 経済にかかわる疑問について、経済学者に聞いてみようというのは自然な発想である。経済学者の方も、素人の素朴な疑問に答える道義的義務はあるだろう。ただし話はそこでは終わらない。
 専門家たる経済学者への素朴な信頼を前提に、そのご託宣を素直に受け入れるという立場は、時には正当化されようが、基本的には問題ありだろう。それが科学的な提言である以上、ご託宣には正当な根拠があるはずであり、そこまで含めての科学と科学者への信頼であるのがまっとうだ。ゆえにご託宣を受ける素人も、きわめて素朴なものでかまわないから、経済学という学問における基本的な仮説や推論方法を理解した上でご託宣を受けた方が、有り難みが増すはずである。
 専門家たる経済学者の方でも素人に対し、もちろんプロ並みのハードな訓練を課そうと意気込むべきではないが、求められた答えだけでなく、なぜその答えが正しいと言えるのか、というその根拠、そして答えと根拠をつなぐ推論法についての理解くらいまでは、押し売りする権利があるといえるだろう。
 つまりそのような、態度としての教養が、あのやりとりにおける内藤からは感じられなかったのである。クレクレ厨が嫌われるのは、ただ単に、自分からは何も有益な知識を提供せず、他人の知識にただ乗りしようとするからではない。他人の知識を尊敬していないからだ。断片的な情報・知識の背後にある知恵への尊敬を欠いたままで、ただただ情報の表層的な効用だけを追い求めるからだ。