教育の政治経済学(含む「経済の教育社会学」by末廣昭)おさらい

 出発点はやはりボールズ&ギンタス『アメリカ資本主義と教育』の「対応理論」ということになるのか。ところでボールズ&ギンタスはもともと、開発経済学で人的投資としての教育政策を研究していて、それがあまりうまくいかないので考え方を変えたのではなかったか。
 ボールズ&ギンタスの議論は、主流派風にいえば学校教育を実効的に生徒の能力を上げる人的投資としてよりは、もともとの能力を示すインデックスとみなす、「シグナリング」の考え方にのっとっている。ただしそのもともとの能力を生来のものではなく、階級的な出自に規定されたものと見なすわけである。この辺りで彼らの議論は、ブルデュー文化資本論などとも呼応している。
 しかしいずれにしても、ベッカー、シュルツの人的資本理論が、たとえネガティブに評価されることが多いとはいえ、議論のベンチマークを提供しているといえよう。


 ところでここで時代を一気にさかのぼり、古典派の議論まで行くとどうなるか。そもそもスミスの場合には、人的投資という概念がほとんどない。スミスにとっての学校教育の意義は、人的資本とはまったく関係がない。まずジェントルマン層の子弟のための学校は大学である(その前は家庭教師)。そしてスミスの大学論はこれはもうほとんどストレートな自由化、民営化論に他ならない。しかも大学教育の投資としての意義についてはほとんど論じられない。
 では庶民層のための教育はどのようなことになるのか? もちろんスミスの時代、18世紀後半にはまだ義務教育はない。にもかかわらずスミスは『国富論』で庶民層子弟のための無償の義務教育を提唱するのだが、その理由は人的投資とは関係がない。それは基本的に治安対策である。読み書きができるようになれば、庶民は狂信(政治的・宗教的)に惑わされなくなる、というのである。大人のための教会に対してスミスが要求する機能も基本的には同じである。
 19世紀、産業革命下の工場法による児童労働規制、そしてそれとタイミングを合わせて進行していく学校教育機構の整備を、どの程度までこのスミス的発想の上に位置するものと見なすか、には議論の余地があろうが、議論の出発点にはできるのではないか。
 しかしスミスは、同業組合と徒弟制の話をしているのではないか? 無給での徒弟修業を学校教育のような投資とみなし、その後の高賃金でその投資は回収される、という議論を展開してはいないか? そうではない。スミスは同業組合の熟練職人の高賃金を、基本的には独占的なレントとみなす。スミスは、徒弟修業が実質的な投資であるとは認めない。職業的熟練は、基本的にはLearning by Doingで十分に獲得できる、と考えている。同様のロジックは法律家や医師といったliberal professionにまで基本的には当てはまると彼は考えているのだ。
 いわゆるイギリス古典派経済学の教育政策論は、こうしたスミス的なラインを大きく踏み超えることは無かったと私は見ている。