長谷川裕一論を書きながら

 「自律型ロボット倫理(学)の基本格率」を思いついた。これはまた更に「自律型ロボット経済学の基本格率」を裏に隠し持っている。
 「自由意志と高度な判断力をもつ自律型、ことにヒューマノイドタイプのロボットに対しては、基本的にはその償却期間の終了を待って、できるだけ速やかに(制限つきではあれ)人権を認めるべきである。」
 つまりロボットを「年季奉公人」に準じた存在と見なすわけだな。もちろん年季の間はロボットには一人前の法的人格は認められない。所有者は同時に保護者、後見人的存在でもあり、ロボットが引き起こしたことについての法的責任を負う。もちろんこの間のロボットの権利、福祉に対して法的配慮がまったくないわけではないが、それは家畜・ペット等の動物に対するそれとかなり共通したものになりそうだ。
 しかし年季が明けた際には、もしそのロボットの知的・社会的能力が十分であるとみなされ、当人もそれを希望するならば、そのロボットは法的に「人」とみなされるべきであろう。
 「年季」が必要な理由は主に「償却」にある。ロボットは高価な買い物であり、経営・会計的には固定資産として扱われるべきであろう。固定資産への投資を回収するには十分な期間が必要であるはずだから、せめてこの間の所有権が保証されない限り、あえてロボットを製作し保有しようなどというインセンティブがなくなってしまう。

 「非自律型ロボット倫理」については、基本的には「誰の所有・管理下にあるかをつねにハッキリさせる」で構わないだろう。(舘翮『ロボット入門』ちくま新書、など。)

 ロボティクスの中で「ロボット倫理」をやってる人は、既にこれくらいのことは考えてるんだろうか。