森建資『イギリス農業政策史』(東京大学出版会))[bk1amazon]、なんつーかしょうがないから買いましたよ。前著『雇用関係の生成』(木鐸社、品切)以来のミーハーなファンですからねえ。しかし近世から近代イギリスの雇用関係法をコモンローに重点をおいて解析した前著は、読めば近代観がひっくり返るほどの衝撃作でしたが、20世紀前半のイギリス農業政策を労働政策との関連で跡付けた(戦時期の農業労働者の賃金・雇用問題を通じて両者は深く結びついていたそうな)今回の本は果たしてこちらの20世紀観を揺るがしてくれるかどうか。
 80-90年代における20世紀社会経済史、特に労働史と農業史における基調は、グラムシ的な意味での「ヘゲモニー」論だったんだよねえ。日本研究に限ってみれば、労働史の佐口和郎『日本における産業民主主義の前提』(東大出版会)[bk1amazon]に東條由紀彦『製糸同盟の女工登録制度』(東大出版会)[bk1amazon]、農業史では庄司俊作『近代日本農村社会の展開』(ミネルヴァ書房、品切)に長原豊天皇制国家と農民』(日本経済評論社、品切)あたり。しかしおそらく研究水準の現段階は、そして時代精神は、このレベルを突き抜ける何かを要求してくるはずだ。
 もう少し具体的に言おう。三輪芳朗が「メインバンク論」「産業政策論」について行なったのと同様の破壊作業を「内部労働市場論」について敢行した野村正実の新著『日本の労働研究 その負の遺産』(ミネルヴァ書房)[bk1amazon]で指摘されているとおり、日本の労働研究はある時期、ちょうどスタグフレーションの時期に行き詰まった。スタグフレーションを労使対立、階級闘争の激化としてそこから「資本主義の危機」を展望するという研究プログラムが80年代には破綻したのだ。代わって脚光を浴びたのが小池和男らの「内部労働市場論」に基づく日本的労働システム礼賛論だったが、これは90年代の長期不況とともに社会的影響力を喪失した。小池はリストラを「非合理」と批判するのみで、なぜ企業がリストラ、人員整理を行なうのかを解明するロジックを持たなかったのである。かくして再び労働研究は行き詰まり、再生への展望はなかなか見えない。
 さて、先の「ヘゲモニー」論的な労働研究は、ちょうど小池の全盛期において、それへの対抗を志してなされていたものであった。つまり、労使関係、資本主義は危機に陥らず、資本家・経営者・国家のヘゲモニーの下に労働者はうまく統合されてしまったが、それはなぜか、という問題意識に支えられていた。(このへんについてはこれを見てください。)しかしこのような問題意識自体、ある意味小池と同様に、その足場を90年代の長期不況によって外されつつある。不況下において企業はかつてのような社会的統合の力を急速に失いつつある(ように見える)のに、にもかかわらず労使関係も資本主義も危機に陥ってはいない(ように見える)のはなぜか、という方向に問いは移動しなければならないのではないか。
 おそらくその際、20世紀前半から農地改革にいたる社会統合の成功を経て、高度成長以降長い長い安楽死のプロセスのもとにある農業・農村社会の歴史的経験を問うことが、重要なヒントを提供してくれそうな気がするが、寡聞にしてこの期待にこたえてくれそうな具体的な業績がトンと思い浮かばない。
 イギリス研究とは言え、農業と労働を両方視野に収めた森の今度の本はどうだろうか。どうも話が50年代で終わって賃金−物価スパイラルの展望でしめくくられる辺り、かつての「スタグフレーション=資本主義の危機」論の亡霊がほのみえてイヤな予感がするのだが……。まあ読んでみるざます。
 しかし、個人的な希望を言えば、森氏には植民・移民論を再開してほしい気もするのよね。ことに近代のmigrationには「労働(力)移動」というパースペクティヴでは捉えきれない次元があるのですよ。森さんはそれをたしかに見据えている。