東京法哲学研究会7月例会(7月8日)

で報告。本来二人のところを一人がギックリ腰でひとりで3時間もらう。
 久々にキングギドラゴジラ、じゃない井上達夫・対・嶋津格の激突を目の当たりにする。そこへいくと森村進氏は癒し系だよなとつくづく思う。
 その後の酒席には二大怪獣、じゃない両巨頭はお越しにならなかったが、代わって強烈な毒を吐きまくる若手(「おおやにき」に出没する××氏とか○○氏とか)のお話を聞いて耳学問する。

小松左京・谷甲州『日本沈没 第二部』(小学館)

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 いろいろ言いたいことはあるんですがとりあえず先生方お疲れ様でした。
 前半、パプアニューギニアの日本人入植地のエピソードは非常にビビッドで読ませました。谷氏の協力隊経験その他が非常によく生かされていますね。日本人が難民であるにもかかわらず財力と技術力で受入国に対する開発援助主体になり、あるいはそれをしくじって豊かさゆえの摩擦を生む、というアイディアは非常に面白い。


 ただ後半ストーリー、そして全体としてのヴィジョンにはどうも納得しきれないものを感じました。問題は反米・反中――というよりその背後にある、『沈黙の艦隊』とも相通づる「平和憲法帝国主義」とも言うべきヴィジョンです。
 「平和憲法ナショナリズム」というものは戦後日本に明確にありました。ただある時期からその中に「平和憲法の理想を実力で世界的に普遍化しよう」という、もはやナショナリズムと言うより帝国主義というべきヴィジョンが育ち始めました。『沈黙の艦隊』はその最も通俗的でわかりやすい表現です。
 本書における国土を失った日本において憲法がどうなっているのか、についての具体的な記述は妙なことにありません。(全般的に、憲法国際法的な問題にかかわる記述がほとんどないのが、気になるところです。)ですから本書における、沈没後25年の日本国の憲法に第9条があるかどうかはさだかではありません。しかしながらここでは、9条以上の特権性が日本国と日本人には与えられています。日本(人)は国土を持たないのです。持たないがゆえに、地球全体を己の故郷とみなしえて、人類社会全体の利益とおのが国益を同一視できる、という特権を与えられてしまっています。更に本書終盤では、日本沈没時の火山活動のせいで地球が再び氷期に突入することがわかります。つまり世界中が環境難民化するわけであり、その意味でも日本人は来るべき世界のリーダーたりうる、と言うわけです。
 これはあまりに虫のよいお話ではないでしょうか。


 あと一つだけ申しますと、前作のヒロイン阿部玲子はなぜか無事生き延び、国連難民高等弁務官事務所のスタッフとして活躍しております。これはよろしい。(日本沈没が日本女性の社会進出を促したという話は、面白おかしくて実によい。)そして彼女は終幕でついに、日本沈没時の負傷とトラウマで記憶を失いつつも、カザフスタンの日本人入植地のリーダーとして活躍していた前作の主人公、小野寺俊夫と劇的な再会を果たします。これもよろしい。
 なんともやるせないのは、カザフスタンでの惨苦の日々をともにした小野寺の妻、摩耶子の扱いです。本作では摩耶子は苦労の果てに5年前になくなっており、それゆえ玲子と小野寺の再会に影は差さないわけですが、そこで小野寺は「子供、できなかったよ」と玲子に言う。これは前作で二人が初めて会ったときの会話を引き継ぐものですが、その際小野寺は摩耶子のことを思い出し、いつまでも少女のような、娘のような女だった、子供であれば子供が産めなかったのは当たり前だ、などと納得する。
 これはひどいんじゃないでしょうか。前作末尾で、重傷をおって朦朧とする小野寺に、摩耶子は子守唄代わりに、故郷八丈の昔語り、丹那婆の物語を聞かせていたことをご記憶の方は多いでしょう。津波で全滅した八丈島に身重の身でたった一人生き残り、生まれた息子を夫にして更に子を産み、再び八丈島を栄えさせた丹那婆の物語を。そして右手切断の重傷を負いながら小野寺に救われ、生きて日本を脱出できた彼女は、自らもまた丹那婆のように生きる覚悟を静かに語っていました。
 それをこんな風に片付けるのは、あんまりと言えばあんまりじゃないですか?