高知工科大学講義(2023年2月14日)

 

参考:

shinichiroinaba.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「殺すことはない」

 大昔に河出の『文藝』のアンケートに答えたことが触れられていた

 

ので少し追記する。

 

 「殺してはいけない」というルールは見ればわかる通りネガティヴな禁止の形をとっている。強い道徳的義務、いわゆる完全義務の多くはこのように「なになにしてはいけない」という形をとり、「なになにすべきだ(しなければならない)」というポジティヴな形をとらない。ポジティヴな義務は多くの場合「なになにしたほうがよい」という推奨の形をとる。そうなっていることにはもちろん理由があるのだが、それはここでは主題としない。問題としたいのはその副作用であり、私見ではフーコーの権力分析やドゥルーズガタリオイディプス・コンプレックス批判などで問題とされていたのもそれだ。

 

 ごく単純に言えばこのような禁止の副作用とはネガティヴ・シンキングである。「殺してはいけない」という形で定式化されたルールが意識化されると、「殺す」という選択肢が禁止の対象としてであれ強く印象付けられてしまうということだ(禁止が実質的に煽りになりかねない)。スポーツのたとえでいえば、ピッチャーに対して、相手バッターの打ちやすい外角低めを避けて投げさせたければ、コーチは「外角低めに投げるな」というべきではない、ということだ。そうではなくむしろそれ以外の具体的な選択肢として「内角に投げろ」というべきなのだ(よりはっきり対極の「内角高め」というべきか、外角低めと内角高めは対になっていてどちらも相対的に打ちやすいので「内角低め」というべきかという技術論はしない)。

 

 ただここで外角がよりはっきり意識化されたところで、この「外角に投げろ」が逸脱を許さない完全義務として意識されても困る。だからこの指示は強い命令としてではなく、「外角に投げた方がよい」という推奨として伝えられるべきだ(その方がよい)ということになる。

 

 この考え方からすれば「殺してはいけない」というネガティヴな禁止よりも「生かす方がよい」というポジティヴな推奨がルールとしてより上位に置かれるべきだ(その方がよい)ということになる。小泉義之が『弔いの哲学』で「生きることはよい」「殺すことはない」という掟を提示しているのはそういうことだ。

 

 「殺すことはない」と「殺してはいけない」の違いを形式化してみよう。標準的な義務論理の義務演算子O(・)で「なになにすべきだ」を意味するとする。これと対になるのは許容のP(・)、「なになにしてもよい」である。O(a)=¬P(¬a)、P(a)=¬O(¬a)であることに注意しよう。つまり「aしなければならない」=「aしなくてもよいということはない」である。

 

 標準的な強い禁止、たとえば「殺してはいけない」は「殺す」をkとするとO¬(k)=¬P(k)となる。これに対して「殺すことはない」はどうなるか?

 

 「殺すことはない」を定式化するためには、実は上と同じ義務論理の枠内にとどまるわけにはいかない。義務だとしても不完全義務、あるいは限定的な義務と考えなければならない。

 「殺すことはない」の否定は「殺すべきである」「殺さない訳にはいかない」である。先の定式化を馬鹿正直に使えばO(k)=¬P¬(k)だ。しかしこれは常識的に考えて変である。誰でもが、いついかなる場合においても「殺してはいけない」という条件には意味がありそうだが、誰でもが、いついかなる場合においても「殺すべきである」というのはおかしい。この命法が意味を持つのは特定の状況においてのみであろう。とすれば、「殺すことはない」についても、特定の状況を念頭に置いて解釈すべきである。つまり、特定の状況においては(例えば戦場において、あるいは法執行の場において)、人は他者を「殺すべきである」という考え方に対しての批判である、と。これを定式化するともちろん¬O(k)=P¬(k)となる。

 だが注意すべきは、小泉は「殺すべきである」の否定である「殺すことはない」を、本来の「殺すべきではない」とは異なり、「殺してはならない」と同様に普遍的な妥当性、拘束力を持つものとして考えている、ということだ。この辺をより正確にするためには、更なる工夫がいる。

 ということで、ルールが適用される主体を明示的に示すこととしよう。となると普遍的なルールは「誰であれ何々すべきである」となる。普遍的なルールとしての「殺してはいけない」は、「xが人だとして、すべてのxは他人を殺してはいけない」ということになる。記号的に定式化すると

∀x(Ox¬(k))=∀x(¬Px (k))

となろう。では「殺すことはない」をどう定式化すればよいだろうか? より正確には条件法の論理、それもおそらくは厳密条件法より反事実条件法が必要となりそうだが、それは複雑で困難なので、まずはとりあえずの一次接近として、ごく単純に考えよう。つまり、より正確には、特定の条件のもとでは、人は他人を殺すことが許される、それどころか殺さねばならない、を条件法でストレートに定式化することは今は避けて、単純に、「ある特定の人は他人を殺さねばならない」を定式化することから始める。とすると、

∃x(Ox (k))=∃x(¬Px(¬k))

となる。これに対する否定としての小泉の「殺すことはない」はではどういうものかというと、

¬∃x(Ox (k))=¬∃x(¬Px(¬k))=∀x(¬Ox (k))=∀x(Px(¬k))

となるだろう。

 

 

 

朝日新聞社編『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』(徳間書店)取材原稿完全版

 朝日新聞の連載企画を基に先般刊行された朝日新聞社編『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』(徳間書店)に寄稿した拙文(インタビューのフォーマットに合わせて編集者に合いの手を入れてもらった以外は当方の書下ろしである)は、紙面でもまた単行本でも大幅に縮減されたものである。徳間書店のご厚意によってここに原型を復元し公開する。

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――研究者としての著書も多数あるなかで、稲葉さんの最初の著書は『ナウシカ解読 ユートピアの臨界』(1996年刊、2019年に増補版を刊行)です。稲葉さんは、今この作品をどう評価しますか。

 宮崎駿のまんが『風の谷のナウシカ』はすでに古典になっています。古典になっている、ということの意味は色々ありますが、ひとつには後進にとっての模範、ベンチマークを提供している、というところです。これについては後に詳しく述べましょう。もうひとつは、もう30~40年ほど前の、一世代以上前の作品であるので、もはや同時代の作品としては享受しきれず、それが書かれた時代背景、固有のコンテクストを理解する努力が求められる、ということです。

 後者から行きますと、『ナウシカ』は今から振り返ると冷戦時代の末期に書かれ、書き続けられるその間に冷戦の終焉を体験している、ということです。そして作品の内容に、物語の展開そのものに、それがストレートに反映してしまっています。だからこの作品はそれ自体で冷戦末期の精神史に触れるための資料としての価値を持つのですが、つまりは冷戦期の文化の蓄積を踏まえて、その一部をなすものとして読まれるべきであると同時に、冷戦期以降の表現に大きな影響を与えた先駆けとしても読まれる必要がある、ということです。

――まんが『ナウシカ』は、雑誌「アニメージュ」誌上で82~94年に連載されました。連載中の89年に東欧民主化ベルリンの壁崩壊、91年にはソ連崩壊が起きます。冷戦中に連載が始まり、冷戦後に完結したわけですね。

 冷戦期とポスト冷戦期の対比をまんが『ナウシカ』それ自体の中に読み込むことはもちろん可能ですが、もちろんもっとわかりやすい対比の構造は、アニメ『ナウシカ』(84年公開)とまんが『ナウシカ』との対比の中に見つかります。よく知られているようにアニメ『ナウシカ』の物語は、当時連載中だったまんが『ナウシカ』の序盤を下敷きに無理やりまとめたものであり、連載の方は完結までその後10年以上を要しました。そのため両者の物語の構造は、単に後者の方が複雑である、という以上に互いに大いに異なっており、対比してみると面白いわけです。

 前者は宮崎駿自身が「クリスマスの奇蹟映画」などと自嘲することもありましたが、物語の組み立てとしては「失われたものの回復」という非常にオーソドックスな構造を持っています。つまりは、かつての最終戦争によって自然環境が破壊され、人間がかろうじて生存可能な片隅に追いやられている世界で、さらなる自然破壊によって人間の天地を回復しようという勢力と、自然との調和的な関係を樹立することで人類の生存をはかろうとする主人公が対決し、勝利を収める、という。それは核戦争(とは書かれていないが高度技術文明を滅ぼした世界戦争)後の世界における人類再生の物語として、宮崎が監督を務めたアニメ『未来少年コナン』(78年)同様にポストアポカリプスSFであり、かつまた聖杯探求伝説の再話であるし、また自らを犠牲として自然と人間との和解を成し遂げ復活する主人公の姿は、イエス・キリストのそれをなぞってもいます。

 ――アニメ『ナウシカ』は、終末や破滅後を描くSF作品であり、中世ヨーロッパなどで広く受け入れられた伝説の構造を採り入れたヒーローや救世主の物語という側面があるわけですね。

 それに対して後者、つまりまんが『ナウシカ』では大いに異なった構造が提示されています。そもそもポストアポカリプスSFの歴史自体、実際にはそれほど単純ではないのです。世界を破滅させた核戦争の基盤には高度技術文明があり、人類再生は単純に高度文明の再建を目指すことでよいのか、それとも別の道を探すべきか、という問いは第2次大戦後の古典SFにおいてもたびたび問われていました(米国の作家ウォルター・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』ほか)。そうしたSFの歴史をふまえると、アニメ『ナウシカ』はここでいう「別の道」を提示する作品と位置付けられるわけですが、それに対してまんが『ナウシカ』は「そもそも最終戦争は全く『最終』戦争でもなんでもなく(すなわち、人類が滅びるがゆえに最後の戦争となるわけでもなく、また生存者がそこから戦争の愚かさを学んで二度と繰り返さなくなるわけでもなく)、現に人類は生き延びて延々と戦争を繰り返している(だから悪しき技術文明も滅びたわけではなく延々と続いており、人類はそこから逃れられていない)」という身もふたもない現実を突きつけ、ポストアポカリプスSFの枠組み自体を脱構築します。もちろんこれはまんが『ナウシカ』が、期せずして冷戦終焉のプロセスに伴走して書かれることになったがゆえに可能になったのですが。

 また同時にまんが『ナウシカ』は聖杯探求の神話崩しにもなっているのですが、その観点においても実は必ずしもまったき先駆者というわけではないわけです。

 ――SFの歴史の面だけでなく、聖杯探求の伝説の面でも先駆的作品があると。どういうことでしょうか。

たとえば「永遠のチャンピオン」サーガにおいてヒロイック・ファンタジーのパロディ、脱構築に取り組んでいた英国の作家マイケル・ムアコックは『軍犬と世界の痛み』(1981年)において、17世紀ドイツで起きた三十年戦争の時代を背景に、神との和解を願う堕天使ルシファーが人間の傭兵隊長フォン・ベックに聖杯探求を依頼するという物語を描きます。地獄の底にまで至る探求の果て、平凡な農婦のいでたちをしたアダムの最初の妻リリスよりフォン・ベックが手ずから得た聖杯は、何のことはない平凡な素焼きの器に過ぎませんでした。しかしこの平凡な器が、フォン・ベックに追いすがるすべての地獄の悪鬼に平穏をもたらし、ルシファーもまた救いを得ます。神と和解したルシファーは地上から去り、その後の世界には神も悪魔も介入しないことが約されます。平凡な器たる聖杯は奇蹟をもたらして世界の穢れや悲惨を贖うのではなく、あるがままの世界が奇蹟であるという福音を告げるのです。そしてまんが『ナウシカ』でも聖杯たる「青き清浄の地」の前で主人公ナウシカは立ち止まり、人間の汚した黄昏の世界で生きていくことを選びます。それだけであればムアコックの『軍犬』と同じですが、まんが『ナウシカ』はそこで立ち止まらずにもうひとひねりを加えます。汚染から免れた「青き清浄の地」は悪しき技術文明から自由な「外部」などではなく、むしろそれこそがかつて戦争による破滅をもたらした高度技術文明の所産に他ならないのです。

 ――まんが『ナウシカ』は、正義のヒロインの活躍を描くだけではなく、ヒロインを含む登場人物の多くが生きる世界における善悪の基準がひっくり返るような展開をたどりました。そうした複雑さが作品の魅力になっていると思います。

 しかし、まんが『ナウシカ』はこのような神話崩しだけで終わっているわけではなく、高度技術文明の時代における新たな神話、新たな物語のプロトタイプとでもいうべきものを作っているようにも見えます。以下それを見ていきましょう。

 ひとつわかりやすいことには、そこにはあからさまにメタ物語的構造が導入されています。アニメ『ナウシカ』でも救世主伝説「青き衣の者」について物語内での自己言及は存在しますが、それだけのことです。アニメの物語はその伝説が預言として忠実に実現されるところで終わっています。ところが、まんが『ナウシカ』においてはその伝説が対象化されます。すなわち「青き衣の者」の救世主伝説は過去にこの世界全体を改造したテクノクラート(技術官僚)たちが、その計画の一環として遺した仕掛けであることが明らかになります。主人公ナウシカはその仕掛けに気づき、それに乗せられて計画の操り人形になることを拒否する、という形で物語批判を遂行します。しかしながら最後には、自ら否定したはずの物語上の救世主としての役回りを、当初の計画とは異なり、あくまでも演技としてではありますが引き受けて人々を謀ります。

 ――主人公ナウシカは物語の最後で、ごく限られた登場人物とだけ秘密を共有します。単なるハッピーエンドではないことに衝撃を受けました。

 救世主伝説も聖杯探求伝説も「失われたものの回復」という大きな物語の一部であり、ナウシカによってこの大きな物語は解体されるわけですが、ここで聖杯そのものが否定されているわけでもないところもまた重要なポイントです。滅びゆく世界を再生する鍵としての聖杯に当たるものは、まずもって、浄化された「青き清浄の地」ですが、第一にそれは持ち帰って人間のために使えるようなものではなく、遠くにあって憧憬すべき希望としてむしろ距離を置かれます。そして第二に、その聖杯は大いなる自然の、神の恩寵の所産ではなく、過酷な汚染された世界に人々を放置しつつ全体の浄化を進める過去のテクノクラートの計画の所産であることが明らかになり、ナウシカはその計画自体を拒絶して破壊するにもかかわらず、この「青き清浄の地」自体は否定と破壊の対象にはならない、ということです。ナウシカによる計画の破壊は、計画の軛から現在の人類や生物たちを解放する(ただしそのことによって、特に人類の究極的な滅亡が決定されるとも言ってよいですが)ことであり、そこには「青き清浄の地」までもが含まれるのです。特権的な救いの表象、聖杯だった「青き清浄の地」はそのような超越的彼岸から此岸(こちら側)へと引きずり下ろされ、かつそのようなものとして肯定されます。このように、ただ否定されるのではなく改めてその意味付けが再構築された上で肯定される、という点では、旧世界のテクノクラートの道具である巨神兵や庭園の番人もまた同様です。

――主人公ナウシカは、道具として生まれた生命も含めた、あらゆる生命を肯定し、その存在すべてを引き受けようとします。こうした主人公像のどこに注目しますか。

 聖杯がこの世に引きずり下ろされる一方で、探求者ナウシカアイデンティティもまた変更されます。敵からも味方からも敬愛され、峻厳さとたおやかさを兼ね備えたナウシカはしかし、母に愛されなかったという欠落を抱えて生きてきた存在でもありました。その姿はまた終盤において明らかになる物語内の人類、つまり戦前の清浄な環境のもとでの人類とは異なり、汚染後の世界に適応できるように改造され、なおかつ世界の最終的な浄化後には役目を終えて打ち捨てられることが予定されている人類のそれと重なります。つまり、この物語の主人公であるナウシカたちは、ある意味で「人間」ではないのです。ただ単に彼らが腐海の蟲や生体ロボット・ヒドラと五十歩百歩の改造生物であるというだけではありません。彼ら自身は自分たちのことを基本的に旧世界の人類の子孫、同じ種に属する同胞だと思っていたのに、旧世界の人類にとってはそうではなく、単なる道具である――つまり現生人類は、祖先である旧世界人類から人間扱いされていないのです。

 つまりまんが『ナウシカ』の世界では「失われたもの」は回復できません。と言うより、「失われたものの回復」という形で進むように見えた物語が、途中から脱構築され、別種の物語に転型しています。それは完全に新しく独自のもの、まんが『ナウシカ』によって創始されたもの、とまでは言えないとしても、非常に特異なものです。そこでは失われたものは失われたままで回復できません。だからそこでの物語は、主人公たちが自らの存在と世界を肯定して終わるとしても、その起源に遡って現在との絆を確認する、という形ではなされえないのです。過去は過去であり、それが現在を起源として形作っていること、過去なくして現在はありえないことは認めつつも、現在の正当性の根拠を過去に求めることはできない、という物語です。しかしながら、ではそこでナウシカはいかにして現在を肯定しているのか? というと、これが案外難しい。

 ――主人公ナウシカは、なぜ現在を肯定し、あらゆる生命を肯定できるのか。納得できないわけではないのですが、その理由を具体的に突き詰めて考え始めると、よく分からなくなります。とても不思議です。

ナウシカは人についても蟲やその他の生物についても、今現在生きているものの尊厳や善性を卒然と肯定しており、そこに何らかの理由を必要としているようには見えないのです。しかしながら一方でナウシカは、自分の感性や考え方が独特であり、大概の人間にはそのようには考えられないこと、過去との連続性、祖先からの血脈の継続、伝統の継承によらずして自己を肯定することが難しいこと、をどうやら知っており、だからこそ古い救世主伝説を現実には拒絶しつつ、人々の前ではそれを演じ続けるのです。救世主伝説を演じるなら、ひょっとしたら「古い革袋に新しい酒を盛る」、自ら真に新しい救世主として、新たな神として振る舞うことさえ可能だったかもしれないのに、そうして自らのカリスマで人々を啓蒙するという選択肢もまたあっただろうに、彼女はそうはしてはいないのです。なぜでしょうか? 

――気になります。オウム返しで恐縮ですが、なぜなのでしょうか。

 「失われたものは決して還らない」という物語としてまんが『ナウシカ』を引き継ぐ試みとしてわかりやすいもののひとつが庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』です。若き庵野がアニメ『ナウシカ』の制作現場で徒弟修業をしていたことはよく知られています。『エヴァンゲリオン』の世界において巨大ロボットに乗せられ、世界を救うためと称して戦わされる子どもたちは、皆、親を――母を失っていますが、それが還ることは決してありません。そもそも主人公シンジは、少なくとも母を取り戻すことを、少なくとも意識的には望んでさえいませんが、父との関係の回復はどうやら望んでいます。しかしながら父はどうやら息子には関心がないのです。「失われたものの回復」に取り憑かれており、どうやらそれに成功しそうなのは父、ゲンドウの方です。人類を救うためにではなく、失われた妻、シンジの母ユイを取り戻すために彼はあらゆるものを、最終的には人類さえ犠牲にしようとします。しかしながら無力なシンジはそのことを知らないし、知ったところで彼にはどうにもできないのです。

 『エヴァンゲリオン』が語り直され、昨年、四半世紀を経て最終的に完結を迎えたときには、物語はどうなったでしょうか? ひとつにはゲンドウへの反逆は、副主人公というべき現場指揮官のミサトの手に委ねられます。ミサトもまた父を失った子ではありますが、彼女の動機は亡き父との絆の回復ではなく、自分自身の子どもたちを生き延びさせることです。「自分が失ったものを取り戻す」のではなく「自分が生み出したものに責任を取る」「未来への投企」という運動が物語を完結に向かわせます。とはいえそこには、そんなミサトを横目で見ていたシンジが自ら大人になり、父ゲンドウと和解して彼に諦めをつけさせる、という物語も並走しています。そこにはゲンドウが息子シンジの中に見失っていた妻の面影を見る、という形で「失われたものの回復」と「未来への投企」が重ね合わされる、というトリックも投入され、またシンジも最終的には母ユイによって未来へと押し出されます。そのように見ると『エヴァンゲリオン』が獲得した未来には、実は美しく優しい過去がオーヴァーラップし、そこでは「未来への投企」と「失われたものの回復」が一緒くたにされています。これは観る側にとって快い物語であると同時に、トリッキーな展開であるとも言えます。

 そうしてみるとまんが『ナウシカ』における現在の肯定と未来への投企は、もっと不気味な含意を持ちます。というのは、まんが『ナウシカ』の未来には、何も約束されていない、というよりその最も蓋然的な帰結は、人類の緩やかな絶滅、でさえあるからです。いうなればそれは「お先まっくらのだれも歩いたことのない未来」(小松左京『日本アパッチ族』)です。しかもその未来に自覚的に直面しているのは、ナウシカと秘密を共有する森の人だけであり、大部分の民衆は彼らに騙されたままなのです。

――まんが『ナウシカ』のラストをどう受け止めればいいのか。少し理解が進んだ気がします。人間とは何か、生命とは何か、といった大きな問いが残されていますね。

 歴史的文脈の中に置き直せば、繰り返しになりますが『風の谷のナウシカ』と『未来少年コナン』は、ジャンル的に言えばポストアポカリプスSF、最終戦争後の荒廃した世界、技術文明が衰退し、環境が激変した地球を舞台とする物語です。また物語のディテール、雰囲気においては、それはJ・R・R・トールキン指輪物語』を代表とするエピック・ファンタジーや、ブライアン・W・オールディス『地球の長い午後』やフランク・ハーバートデューン』シリーズ、あるいはM・ジョン・ハリスン『パステル都市』などの、異星や未来の地球の架空の生態系と社会を綿密に書き込むタイプのSFの系譜に連なる作品である、と言えましょう(岡和田晃によるM・ジョン・ハリスン『ヴィリコニウム』解説を参照)。『デューン』同様、砂漠の惑星を舞台とした薄汚れた未来を活写した映画シリーズ『スター・ウォーズ』の影もそこには落ちています。まんが・アニメともに『ナウシカ』は、過去の技術文明の遺産に依存した中世的な社会と、異形の新生物が闊歩する酷烈な自然を、鮮烈なヴィジュアルで描き出しています。

 先に見たように冷戦期のポストアポカリプスSFにも既に、高度技術文明と人間性への懐疑は兆していたのですが、それを更に敷衍した「回復されるべき(それさえ回復されればうまくいくはずの)本来的人間性などそもそもなかったのではないか」という認識は、戦後のフランスや日本で生まれた実存主義文学とも通じるものです。それは今や、ハリウッド大作で世界的になったフィリップ・K・ディックのSFによって大衆化されたとさえ言えます(もちろんディック自身もまた多数のポストアポカリプスSFをものしています)。あるいはまた、人類生存の使命を引き受けるよりも個人としての安楽な生をまっとうすることを選ぶ、というシニカルな選択も、既にオールディス『地球の長い午後』で印象深く描かれており、それもおそらくはまんが『ナウシカ」の結末の先取りです。

 ――まんが『ナウシカ』は、世界の文学や映画などとの影響関係があり、大きな流れの中に位置付けられる作品だと。

 もちろん、まんが『ナウシカ』ならではの独自性も見いだせます。ディックのSFの場合には「世界全体が偽物なのではないか」という不安とともに、そうした偽者でいっぱいの世界の彼岸に真実があり、そこが救済である、という匂いが完全には断ち切れなかったように見えます(自分そっくりの偽物であるとの嫌疑をかけられ、それを晴らすべく奔走する主人公が、結局自分こそが偽者であることを発見する初期短編「にせもの」や、映画『ブレードランナー』原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』におけるような例外的達成は無視できませんが)。あるいは一見ラディカルなオールディス『地球の長い午後』も、単なる思考停止と見ることもできましょう。それらと比べたとき『ナウシカ』はもう少しだけ進んでおり、「自然な本来性」とは別のところに人間や生命の意味を見出そうとし、かつ公共性という次元にまで橋をかけようとしています。しかしその困難もまた、そこには提示されているのです。四半世紀後の今日から振り返ってみれば、そのようなまんが『ナウシカ』の結論は少なくとも日本のポップカルチャーにおいてはひとつの祖型、新しい「現代の神話」として機能して、多くの追随者を生み出しており、思想史的にも今世紀のポストヒューマン/トランスヒューマンの論点を先取りしていると言えます。

 ――まんが『ナウシカ』はもはや古典である、という冒頭の言葉の意味するところが見えてきた気がします。

 既に見たように、侵略者との対決を装った人類再生プロジェクトを描く『新世紀エヴァンゲリオン』は間違いなく『ナウシカ』の嫡子ですが、近年の例を挙げるなら、日本のビデオゲーム『NieR:Replicant(ニーア レプリカント)』(2010年)では、主人公たちは冒険の果てに自分たちが人間ではなく、滅びつつある人類を守るための道具であったことを発見しますし、続編『NieR:Automata(ニーア オートマタ)』(17年)では、宇宙からの侵略者から人類を守るべく作られ苦闘する主人公のアンドロイドたちが、実はすでに人類が滅びていること、あまつさえ自分たちが人類よりも侵略者たちの近縁種であることまでを知らされます。ゲームという形式によってそうした主人公たちに没入的に共感するよう誘導されるプレーヤーたちは、もちろん主人公たちは虚構の存在ですが、自分たちが共感できる、その意味では同じ(あるいは広い意味での)「人間」であると思い込んでいたのに、そこで一気に突き放されます。

 あるいは追随者とはいえませんが、SF黄金期の巨匠アイザック・アシモフは、その晩年、1980年代において、青年期の自分がものしたロボット物語と銀河帝国物語を統合して、人間に奉仕することを使命とするロボットが、その使命を全うするために、人間を自己の運命の主人として自立させるために自己消去するさまを――しかしそれを徹底できずに陰から人類を見守り、操るさまを描いています。まんが『ナウシカ』の前半とほぼ同時並行した時期に書かれたこのサーガのテーマはまんが『ナウシカ』と確実に通じ合っています。宮崎自身が邦訳されたこれらの作品にインスパイアされた可能性もまたあるでしょう。AI(人工知能)の爆発的発展を見た近年、これらのテーマは、哲学者で英オックスフォード大学教授のニック・ボストロムの著書『スーパーインテリジェンス』(2014年)に端的に表されているように、真剣な哲学的倫理学の主題として議論されるようになってきました。

――改めて、まんが『ナウシカ』とはどういう作品でしょうか。

 アニメ『ナウシカ』は80年代半ばという時代において、当時はっきりと少数派の異議申し立てを超えて新たな時代をリードする思想となりつつあったエコロジズムフェミニズム、あるいは近代テクノロジー文明批判をわかりやすく集約した寓話、現代の神話として受容された、といえます。それに対して長期連載のさなかに冷戦の終焉とその後の世界の混沌化を経験したまんが『ナウシカ』は、格段に複雑で内省的な作品、わかりやすい神話的構造を提示するよりも、それを絶えず相対化し問い直す哲学的、思弁的な物語となりました。前者の方は超未来における高貴な神話的英雄による世界の再生の物語として読まれる余地があったとしても、後者においてはその道は完全にふさがれ、我々の未来の延長線上にある、我々と同じ苦悩にさいなまれる者たちの、単に実存的苦悩にとどまらずそこでの公共性の再建への苦闘を描く物語となりました。逆説的にも、その主人公たちは厳密な意味での「人間」ではないかもしれないにもかかわらず! いやだからからこそ、そこでの公共性の再建は、「失われたものの回復」としてよりも「後に来る者たちへの贈与」として描かれます。

 ――主人公ナウシカ個人の「実存的苦悩」にとどまらず、ナウシカが主導する「公共性の再建」に向けた苦闘が「後に来る者たちへの贈与」として描かれる……。確かに、まんが『ナウシカ』のラストはそのように読めます。

たとえば『NieR:Automata』ではゲームの真エンディングにおいて、(人間がいない、ロボットだけの)世界を救うべく犠牲とされた主人公たちを(この真エンディングを観るためには四つの別々のエンディングを全てクリアしなければならないのですが、そこまでの苦闘を記録したセーブデータを消すことと引き換えに)救うようにプレーヤーは促されます。ここで主人公たちはもはやプレーヤーの分身ではなく、プレーヤーにとっての他者となり、その他者を救うかどうかの選択がプレーヤーに提示されるのです。かつての回復されるべき過去とはしばしば自己のアイデンティティそのものであったのですが、今や切り開かれようとするのは、徐々にではあるが、「お先まっくらのだれも歩いたことのない未来」になりつつある。そのようなイメージをこのエンディングは結晶化させています。

――ここまでのお話しをふまえれば、まんが『ナウシカ』はもはや古典であるということですね。よく分かりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Artificial Intelligence, Robots, and Philosophy Edited by Masahiro Morioka

Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 

Special Issue: Artificial Intelligence, Robots, and Philosophy

Preface
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Introduction
: Descartes and Artificial Intelligence
Masahiro Morioka
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):1-4
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Isaac Asimov and the Current State of Space Science Fiction
: In the Light of Space Ethics
Shin-ichiro Inaba
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):5-28
[PDF][Repository] Open Access

Artificial Intelligence and Contemporary Philosophy
: Heidegger, Jonas, and Slime Mold
Masahiro Morioka
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):29-43
[PDF][Repository] Open Access

Implications of Automating Science
: The Possibility of Artificial Creativity and the Future of Science
Makoto Kureha
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):44-63
[PDF][Repository] Open Access

Why Autonomous Agents Should Not Be Built for War
István Zoltán Zárdai
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):64-96
[PDF][Repository] Open Access

Wheat and Pepper
: Interactions Between Technology and Humans
Minao Kukita
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):97-111
[PDF][Repository] Open Access

Clockwork Courage
: A Defense of Virtuous Robots
Shimpei Okamoto
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):112-124
[PDF][Repository] Open Access

Reconstructing Agency from Choice
Yuko Murakami
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):125-134
[PDF][Repository] Open Access

Gushing Prose
: Will Machines Ever be Able to Translate as Badly as Humans?
Rossa Ó Muireartaigh
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):135-146
[PDF][Repository] Open Access

Open Access Book 
Artificial Intelligence, Robots, and Philosophy
Edited by Masahiro Morioka 
Journal of Philosophy of Life Vol.13, No.1 (January 2023):1-146
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