『AI時代の資本主義の哲学』補足

 拙著『21世紀の資本主義の哲学』ではマルクスシュンペーター、コルナイの系譜を重視して資本主義の(社会主義その他集権的経済と対比したときの)眼目を「イノヴェーションを伴う/誘発する市場経済」とした。市場で競争する企業はただ単に相場(競争的価格水準等)に追随するだけではなく、相場を脱して一時でも独占的地位を享受するために革新に駆り立てられ、そうした志向は時に独占を長期化させて市場における競争をゆがめてしまう危険がある。さりとてそうした独占志向を過度に抑え込もうとすれば革新は停滞してしまう。
 またそのような革新のために必要な前提条件は競争的市場だけではない。所有権の安定もまた重要である。所有権の安定は取引の自由の前提条件だが、取引の自由とは取引する自由と取引しない自由の両方を含む。
 (個人であれ組織であれ)企業が必要な資源を調達する方法は、市場などを通じて外部からの取引で入手するか、あるいは自家所有などして自ら保有しているものを使うか、のどちらかである。スミス、マルクスの系譜を重視すれば、資本主義にはまた「生産要素をも商品化した市場経済」という本質規定が可能となるが、土地、資本、労働力といった生産要素市場の奇妙さは、それが多くの場合高額であるためまるごと商品として売買されることは少なく、別様の取引様態が用いられる、ということだ。土地はまるごと売買されるよりも通常は賃貸される。資本設備は逆にまるごと所有されることが多いが、高額に上るし、外部からまるごと購入するよりも自家生産されことも多く、一括購入にせよ自家調達にせよ、その資金は長期の借入によることが多い。また労働力においてはことに奴隷制度が非合法化されてからはまるごとの売買は禁止されたに等しく、雇用や請負といった独自の取引様式が用いられる。
 このように生産要素は、それが高額であったり、適切なものを外部市場からそのまま調達することが困難であったりといった理由から、その調達が外部市場よりは企業組織に内部化したそれに――自家所有の土地や設備、長期雇用の人材に――依存することが多くなるのが、資本主義の特徴である。このような理解は20世紀後半ともなれば新旧の制度学派経済学や一部のマルクス主義にはおなじみであり、そのような観点から資本主義、特に20世紀のそれを「組織資本主義」ととらえ、資本主義を市場と組織の組み合わせという視角から理解するアプローチは広く受容された。
 しかし20世紀末以降の情報通信革命は、外部市場から適切な取引相手を探し出す「取引費用」を低減させ、内部組織で在庫や余剰人材を抱え込む費用を我慢する必要を低下させていく。つまり企業の組織への依存度を減らし、外部市場への依存を高め、それこそ古典的な経済学の教科書で描かれていたような純粋市場経済へと少しづつ近づいているように見える。しかしながらだからと言って「必要なものはすべて外部市場から借り入れ、オフィスも工場も賃貸で従業員も全く雇わない」という企業でも、自社製品の中核的な技術・ノウハウやブランドは自家所有とするだろう。そのような意味ですべてが市場へと外部化されることはない、と私たちは考える。つまり市場と組織のバランス、ではなく、市場と所有のバランスをとることが資本主義の眼目である、という風に理解を深化させるのが我々の立場である。
 さてこのような我々の資本主義論は、新制度派経済学、法と経済学などの知見を踏まえつつも、結論的には非常に古典的な、市場中心の資本主義理解へと回帰したもののように見えるだろう。そしてそのような資本主義の特徴は、イノヴェーションを絶えず引き起こし、持続的経済成長を可能とするところにある。これはとりあえず事実認識だが、同時にそのような資本主義の存在を、自由と民主主義、万人の幸福と自由の実現のために望ましいものとして、価値あるものとして肯定している。そこまでは確認しておこう。
 そのうえで少し考えておきたいのは、果たして持続的経済成長を可能とするような外部的環境条件は、どこまで整っているのか、である。
 地球は大体において閉鎖系――物質の循環についてはもちろん、太陽エネルギーの入力とその廃熱としての放出についても――であるため、利用可能な資源には限りがある。そのことへの問題意識は新しいものではない。リカードウ、マルサスジョン・スチュアート・ミルはいずれも地球上の土地には限りがあるので、それらすべてを開墾しつくすことで経済成長は可能な上限に達してストップする、と予想していた。マルクスがかれらを批判したのは、格差の容認についてのみならず、そうした成長ペシミズムについてでもあった。工業化が本格化して以降もジェヴォンズは『石炭問題』でこの資源制約について警告し、そうした問題意識は1世紀後に、ローマ・クラブの『成長の限界』でクローズアップされた。更に20世紀末には、資源の枯渇以上に資源の過剰と廃熱バランスの破壊――地球温暖化という観点からの、経済成長に対する環境の制約の重要性が問題となってきた。
 このような問題に対してオーソドックスな立場は、制度的・政策的工夫とともに、資源利用の効率を改善する技術革新を奨励する、というものであり、合理的な政策を効果的に実施する公共政策に期待すると同時に、ボトムアップの技術革新にも期待する、というものであり、その限りでは資本主義そのものの否定にはつながらない。しかしこのような革新、資源利用効率の改善には限界はないのだろうか? ――厳密にいえば、物理学の法則が画する限界があるはずだ。地球は物理的にほぼ閉じた系なのであるから、利用できる資源の絶対量に限界がある、とだいたい言える。そのうえで、その利用効率をどんどん上げていけばいい、と言ってもその効率改善にも限界があるだろう。なんとなれば物理的世界は完全に滑らかにはできておらず、ミクロレベルまで行けば量子的でごつごつしており、資源の利用単位を無限に小さくしていくことはできないだろうから。分子サイズあるいは原子サイズの機械は作れても、素粒子サイズとなればそうもいくまい。
 では地球の外側に出て行けばどうなるか? 太陽系内は案外狭い。基本的には現代の水準からそれほどかけ離れてはいない技術的条件の下でという前提に立ってではあるが、Tony Milliganらの研究は、小惑星資源は順調にいけば千年以内に取り尽くされてしまうだろう、と予測している。では系外宇宙への進出は? 恒星間文明の可能性についてのまともな議論はまだほとんどないに等しいので、我々はいまだ惑星スケール、せいぜい星系スケールでしか資本主義の可能性については論じられないし、その範囲では経済成長には資源・環境制約による上限は長期的にはある、と言わざるを得ない。
 それゆえ暫定的結論として今言っておくべきは、環境問題への対処として資本主義を廃止するというのは悪手であるが、資本主義的経済成長にとって環境の制約は長期的には重大な問題である、ということだ。
 第二に議論しておきたいのは、もう少し差し迫った問題としての、人口問題である。非常に大雑把に言えば人口爆発は、資本主義、持続的経済成長が引き起こした――とは言い切れないまでも可能としたものである。産業化以前の人口増加は資源制約にぶつかってストップし、人口の大部分の生活水準は、多産多死のライフサイクルの下人口を再生産するにぎりぎりのレベルで保たれてきたが、輪作により休耕がなくなった農業革命、更に動力革命以降の産業革命によって生活水準が上がり、栄養状態などの改善によってまずは死亡率が低下するという形で人口爆発が起きた。しかしながら20世紀後半には、死亡率の低下に遅れて出生率の低下が劇的に進行し、出生力が人口置換水準を下回って、人口増加のストップから更に21世紀には人口低下へと転じつつある。
 産業化以前の人口動態は、グローバルにではなくローカルな文明圏のレベルでの話ではあるが、おおむね、文明が反映すると人口が増加し、それが資源制約にぶつかって、飢餓や戦争によって文明が衰退して人口が低下し、のサイクルがある程度観測された。それは人類以外の生物の個体群動態とそれほど変わるものではなかったともいわれる。ただ19世紀以降の持続的経済成長がこのパターンを崩してしまった。資源制約から解き放たれた人口増加が可能になったように見えたのである。しかし我々はいまそれ以上に奇妙な、戦争や飢餓によらない、平和で豊かな社会の中での、平和と豊かさゆえの人口減少という未曽有の事態を目撃しつつある。このような人口の長期的動向が資本主義に何をもたらすかは、まだ定かではない。
 我々の資本主義観は、基本的には市場メカニズムの旺盛な調整力を信頼するものではある。その立場からすれば市場メカニズムもこのような人口動態に適応してその下での適切な資源配分を達成し、のみならず人口動態それ自体も相応のバランスを保つようにはたらくことが期待できる。しかしそれが具体的にはどのようなものになるのかは必ずしも自明ではない。
 市場メカニズムによる人口調整は、そもそもスミスやマルサスが理論的に予想していたものである。労働需要が逼迫すれば賃金が上がり、賃金上昇は出生率を上げ、それが長期的には人口増加と労働供給増加につながって賃金を下げ、出生率を下げる、という。しかしこのメカニズムは、生身の人間のライフサイクルの性質上、ゆっくりとしかはたらかない。またマルサスは土地、農地という資源の性質上、新しい土地の開墾による食糧供給の増大スピードは人口増加のスピードに追い付かないのでは、といった危惧を提示していた。このように、資本主義は人口に対して労働市場という調整メカニズムを提供しているとしても、それは必ずしもスムーズにはたらくものではない、という危機意識は古くからあったのである。
 現代の資本主義と福祉国家の下での人口減少は少子高齢化という形をとっており、このことが更なる難問を突き付けている。少子高齢化はマクロ経済的に困難な問題を我々に突き付けている、というのである。古典的な見方(古典的なマネタリストケインジアンに共通する)においてはマクロ経済とは貨幣的現象であり、金融当局が適切な貨幣供給を行えば、市場メカニズムがうまくはたらくが、貨幣が不足すればデフレと不況が起こり、過剰になればインフレが起きる。しかしながら少子高齢化の下で、国家財政における老齢年金と医療保険のウェイトが高まった時代においては、異なるメカニズムがはたらく。実際には資本主義経済における貨幣の直接的供給は、銀行など金融機関の信用供与によって引き起こされ、中央銀行、金融当局はそれを規制することによって間接的・マクロ的な貨幣量のコントロールを行う。だから政府がしっかりしていれば万事大丈夫なわけではなく、民間の金融取引がそれとしてスムーズに行われ、健全に経営されることが重要である。しかし少子高齢化の下での国家財政への赤字圧力は、借金、公債依存を生み出し、公債を引き受ける民間の金融機関への圧力を生む。このように考えれば民間の金融機関の経営不安が、ミクロ的な破綻をマクロ経済全体に波及させるリスクも少子高齢化によって上がるはずだ。
 一部の論者はそもそも日本のデフレ不況自体の遠因を少子高齢化に求める。単純に考えれば少子高齢化は人手不足とインフレに導くはずだが、日本の場合はその解消を外国、特に中国への生産拠点移転、途上国の低賃金労働に求めたことが問題なのだ、と。もちろんグローバルな低賃金労働への依存は日本に限られたことではなく、低賃金や失業、格差の拡大はグローバルな問題だったが、マクロ的な不況の長期継続は日本に限定されていたわけであり、マクロ政策の転換によってこうした動向はある程度是正されたのであって、上記の議論は全面的に受け入れられるものではない。
 現下の状況では、人口動向のマクロ経済的インパクトをいうのであればむしろ重視すべきは、人口が減少するのであれば長期的には賃金上昇圧力、それと合わせての医療・年金支出の増大による財政逼迫によるインフレ圧力の増大ではないだろうか。実際上記の「中国デフレ論」においても、中国を含めた途上国が低賃金労働力の供給減であった時代はとうに終わり、これらの国々の豊かな社会への突入と同時に、日本他旧先進諸国以上のペースでの少子高齢化と人口減少が予想されるのである。

 

 

 

 

田島正樹『文学部という冒険』の『わたしを離さないで』評を承けて

 田島正樹先生の『文学部という冒険』、掉尾を飾る大童澄瞳『映像研には手を出すな!』批評は見事だが、その伏線としてのカズオ・イシグロ『わたしを離さないで』読解にはやや首をひねる。いやたしかにこの作品のいかがわしさの核心部分に触れてはいるが、肝心なところで外しているように思われる。しかし着眼はたしかに圧倒的に優れている。

 『わたしを離さないで』のいかがわしさの一端はSFのフェイクであるところ、SF的意匠を単なる寓話として用いていて、真剣なSFではないところに由来する。あれを真剣なSFとして読むなら、主人公たちが置かれた不条理な状況への告発が作品の主題ということになり、物語の動力はその構造への主人公たちの反逆か、あるいは悲劇的な挫折かということになる。しかしそんな風にはあの作品は読めない。
 トリヴィアルなところでしか現実世界と変わらない世界を舞台とする普通のリアリズム小説とは異なり、SFはシステマティックにかつ有意味に現実世界とは異なる世界を舞台とするが、実はSFもまたある種のリアリティラインを持っており、そこから逸脱する作品は駄作として責められる。そう考えると、20世紀末以降の世界のSFの相場観においては『わたしを離さないで』は完全にリアリティラインを逸脱しており、SFとしては読めない。もちろんリアリズム小説としても読めない。我々の多くは既にクローン人間というものが実現すればそれは一卵性双生児と本質的に変わるものではなく、もし仮に我々普通の人間に魂があるというなら、クローン人間にも魂があるということを当然のことと受け入れる世界で生きている。そしてそのような現実世界において書かれるSFが、有意義なSFであるためには、その架空世界と現実世界とのズレを、(それがいかにおぞましかろうとも)十分に合理的な根拠を持ったものとして描かれねばならない。しかし『わたしを離さないで』においてはそのような努力の跡は見られない。読者はただその世界設定を「そういうものだ」と受け入れることだけを求められている。つまり『わたしを離さないで』は単なる寓話であり、(ジャンル)ファンタジーではあっても(真剣な)SFではない。SFは普通に快く読めるように現実世界とその中での我々の運命についての寓話として読めるように書かれるが、同時にまた現実世界に潜在する未知の可能性の実現としての異世界についての探究としても読まれることを目指している。『わたしを離さないで』はわざと現実世界とは異質な世界設定を利用して、現実世界の中でのわたしたちの運命についての寓話をわかりやすく展開することしか目指していない。だからこそあの作品のなかで主人公たちはどこにもたどり着けないし、彼らの芸術は何ものをも生み出さず、現実を変えることはない。
 ではもし彼らの芸術が、彼らにも魂があることの証明として世界に突きつけられたならば? もちろんそのようなストーリーは考えられるが、それは我々の時代においてはもはやSFにはならず、ファンタジーにしかならない。彼らの芸術が外の普通の人間たちの心を打ち、悔い改めるなどという結末には、彼らの芸術の発する光が、外の普通の人間たちには実は魂がなかったことを明らかにし、生ける屍人に過ぎなかった普通の人間たちがすべて腐れ落ちる、という結末と同程度のリアリティしかない。芸術にはそんな力はない。あったとしたらむしろ邪悪な魔術である。
 むしろあれがSFとして書かれた上で、そのなかで彼らの芸術の位置づけをきちんと行うとしたらどうなるか? それはトマス・ピンチョンが読んだジョージ・オーウェル1984年』や、マーガレット・アトウッド侍女の物語』のやり方だ。すなわち、テキストを後世に残された悪夢の時代の記録として読む、という。ピンチョンは『1984年』がスミスの手記と新語法についての付録の二部構成であることに注目し、作品を後世の歴史家が校訂したテキストとして読むことを新版への解説において主張する。アトウッドの場合はもっとストレートに、本体の手記とそれに対する後世の歴史家の解説として作品が構成されており、やや興ざめでさえある。『わたしを離さないで』の場合にも同様の解釈をすれば、あれをSFとして読むこともできなくはない。その時主人公たちの芸術は、彼らが人間であることの紛れもない証明として読者たちの前に開示され、と同時に彼らを魂なきものとして扱った時代総体の狂気が浮かび上がる、という仕掛けになる。もうひとつ、あれを宗教説話にしてしまうことももちろん可能だ。すなわち、主人公たちは芸術によって魂を救われ、死後天に迎え入れられ、他方彼らの臓器によって長らえた者たちを含めた外の人間たち全ては地獄に落ちた、と。
 もちろん『わたしを離さないで』はそのどれでもなく、中途半端な寓話に終わっており、芸術の意味という主題をまともに追究していないという田島の批評は正鵠を射ている。しかしながら私の考えでは、現実世界についてのぬるい寓話の域を超えて真面目なSFないしファンタジーとしてこの作品を作り変えるなら、上のような可能性しか残されていない、と私は考える。そこのところで田島と私とでは世界観が異なっている。クローンたる主人公たちの芸術作品を鑑賞することによって悔い改めることができるくらいなら、あの世界の人間たちは最初から彼らクローンたちをあんな風には扱ってはいない。そして実際クローンたちの芸術は何ら世界を変えないのである。つまりそこで責められるべきは誰か? 天才性を発揮できなかった非力なクローンたちかと言えば、もちろんそんなことはない。責められるべきは、地獄に落ちるべきは彼らを臓器源として搾取する人々の方だ。人は自分に魂があるなどと主張する責任は負わされていない。逆である。芸術作品など創ろうと創るまいと、彼らに魂があることは明らかであるのに、それを認めない世界の方が狂って邪悪なのである。その狂気と邪悪に対して疚しい良心の痛みを感じた者たちが、エクスキューズとして芸術をクローンたちに教えたとしても、それによって救われるのはクローンたちの魂ではあっても彼らのではない。彼らの罪はそんなことでは帳消しにはならない。
 ところが『わたしを離さないで』のたちの悪いところは、疚しい良心に苛まれてクローンたちに芸術を与えた者たちを含めて、外の普通の人間たちが事実上キャラクター、登場人物ではなく舞台装置にすぎない、ということだ。つまり彼らには救済はおろか罪を背負う資格さえ実はない。読者の感情移入の対象は、もっぱら無力なクローンたちに限定されている。しかし本当にあの作品で芸術の力についての物語を紡ごうとするならば、主人公たちに芸術を与えた管理者たちはそのような書割にとどまっていてはならないはずなのだ。しかしそうなったとき、元の作品のあの不穏さを隠し持った静謐さは破綻し、代わってP・K・ディック「まだ人間じゃない」の救いのない地獄がむき出しになるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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