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戦争倫理学への補注

今日びの動向を見ながら近刊予告 - shinichiroinaba's blogへの補足を試みる。

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『社会倫理学講義』で戦争倫理学についても少しだけ論じたが、そこではあまりはっきりと立場を打ち出せなかったので、このウクライナ戦争を前にもう少しはっきりさせようと思う。
 そこで我々はリベラリズムの政治哲学と矛盾しないリベラルな戦争観とでも言うべきものをおずおずとながら提示した。その要点は結局のところ「戦争と平和の区別をはっきりつける」とでも言うべきものだったかと思う。戦争そのものを悪として否定し、なくすべきだという議論は提示しなかった。実際問題としてときに暴力は噴出し、暴力を用いた紛争は現実に起きてしまうものなので、いかにそれを抑え込み、管理するかという方向で議論を進めた。戦争を絶対に否定すると、実際に起きてしまった戦争を前にそれをあたかも絶対悪であるかの如く思考を停止し、その中でのよりましな方向を探るという思考ができなくなることを恐れてである。そのうえではっきりと戦争状態と平和な状態を概念的に分けること、時間的には戦時と平時、空間的には戦場と後方、人的には軍人と民間人、といった区別をきちんと行うことにまずはコミットすること、戦争を抑制する、理想的にはなくすことを目指すとしても、そのためにもまずは概念的にこの区別を明確にし、かつそれを実際に制度化することを目指すこと、が大事である、という議論が目指された。
 たとえばホッブズの国家論においては私人の交戦権は否定され、交戦権は国家に集約される。近代における無差別戦争観でもそれは継承され、国家は原則的に好き勝手に戦争はできるとしても、戦争をする権利は国家にしかない。そのうえで20世紀後半以降、ハーグ陸戦協定や日本国憲法国連憲章などに結晶する戦争違法化論がある、と考える。総力戦体制論や核による抑止でさえ、その射程内にあるのだ、と。
 『社会倫理学講義』ではしかし、そうした近代における区別を脅かすような20世紀以降の動向にも触れた。ひとつは低強度紛争の頻発であり、今一つは中国、ロシアが模索するハイブリッド戦争である。前者はリベラルな戦争観の下での国際秩序のほころびともいうべき、破綻国家における内紛が国際社会に波及するという問題だが、後者はより確信犯的にリベラルな戦争観への挑戦である。
 リベラルな国家は原則として国家目標というものをもってはならない。リベラルな国家に目標というものがあるとすればそれはあくまでも国民の権利と利益の保護であり、主権者たる国民の合意がある限りで特定の目標を追求することがあったとしても、それを離れた固有の目的というものをもってはならない。しかし現在のロシアや中国はこうした考え方をとらず、国民の権利や利益とは区別された国家それ自体の目的を自覚的に追求している。ハイブリッド戦争観は、この国家目標を追求するために軍事を含めたあらゆる手段を動員すること、というものである。これは戦争と平和の区別に立脚したリベラルな戦争観、それを踏まえたリベラルな国際秩序とは究極的には敵対するものである。
 ただし現在のロシアも中国も、冷戦期とは異なり、世界征服を目指しているわけではなく、自分たちの国土とその周辺領域を「帝国」として確保して、国際社会の中で一定以上のプレゼンスを示すことから先に出ることはなさそうである。ロシアや中国はリベラルな国際秩序を否定しているのではなくそれに寄生し、ハックしている。リベラルな国際秩序は究極的には実は国家ではなく個人の権利と利益を守ることをその存在理由としており、国家主権はそのためのツールに過ぎないということになっているが、ロシアや中国を含めた権威主義国家は国家主権の尊重をいわばハックして、権威主義を守るために利用している。世界市場もまた、国家やエリートの権益を守るために利用しつつ、国内においては自由で公正な市場を尊重しない。
 それゆえ少なくとも国家主権を焦点とする限りでは、ロシアも中国もリベラルな国際秩序に正面から敵対することは避けるであろう。そこを尊重しない限り、国内体制への国際社会からの批判を「内政干渉」とはねつけることができないし、またエリートが資産を国外に逃避させることもできない。今次のウクライナ戦争でさえ、ロシア側の立て付けとしては戦争ではなく、ある種の人道的介入ということになっているのであるし、予想される中国の台湾進攻もまた、同様の形をとるであろう。
 このような状況下では、いかにロシアや中国をはじめとした権威主義体制がリベラルな国際秩序に究極的には敵対するものではあるとしても、その体制に積極的な攻撃をかけることは、戦争、軍事行動はもちろんのこと、政治工作という形でも正当化することは難しいだろう。世界戦争によって国際社会全体、人類文明総体を危険にさらしてまで、ロシアや中国の体制を滅ぼすべきかというと、必ずしも答えは明らかではない。
 ただ確認すべきは、ロシアや中国やその他の権威主義体制は、リベラルな国際秩序にとって脅威ではあるが、その全面的敵対者、それへの挑戦者ではなく、それに寄生し、それをハックする存在であるということだ。つまりそれらはリベラルな国際秩序、リベラルな市民社会へのオルタナティヴではない。国家主権の尊重という建前がなければ、それらは自国の秩序を外的影響から守れないし、完全に鎖国していては、エリートたちはリベラルな市民社会のアメニティーを享受できない。だからそれらの体制を、その存在はとりあえずは仕方はないとあきらめて折り合いをつけ、耐え忍ばねばならないとしても、道徳的に容認してはならない。
 くりかえすがそれらはリベラルな社会にとってのオルタナティヴではなく、それへの寄生者、ハッカーである。かつての新左翼は、そもそもスターリン批判から出発し、「現存する社会主義」における抑圧に対しては否定的であったにもかかわらず、それでも、具体的な「現存する社会主義」そのものについてはともかく、それが存在しているということについては「資本主義に対するオルタナティヴが可能である証拠」としてどこかで肯定的な感情を抱くことが多かった。同様のことは西洋の知識人の他者としてのイスラームへのロマンティックな心情についてもいえよう。しかし今にして思えばそのような心情はある種の退廃であったとしか言いようがない。「現存する社会主義」の下で生きる人々を、資本主義を批判するための西側知識人の心のよりどころとするのは、誤りである。まして現在の中国もロシアも、リベラル社会へのオルタナティヴなどでは全くないのだから、それを西側のリベラル社会の批判のためのよりどころとして利用してはならない。
 

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