関東社会学会第69回大会テーマ部会B「ワークショップ時代の統治と社会記述――「新自由主義」の社会学的再構成」(2021年6月12日)へのコメント

関東社会学会:年次大会---第67回大会(報告要旨・報告概要:テーマ部会B)

*当日コメント

・拙著『「新自由主義」の妖怪』(稲葉[2018])を踏まえていただいて大変光栄であるが『政治の理論』(稲葉[2017])を踏まえていただかないと実はコンテクストが十分にはわからないはず。

・古いマルクス主義の発展段階論の構図を前提にすれば「新自由主義」概念は一見わかりやすい。すなわち、後期資本主義=国家独占資本主義が行き詰まり、支配階級たる資本家は体制維持のために小さな政府、規制緩和に逆行しようとする。つまりはファシズム同様の反動、資本主義の断末摩である、と。
 この理解の欠点――いつまでも「断末摩」が続く万年危機論。しかも社会主義の崩壊後もまだやっている。国家独占資本主義がそもそも資本主義の断末摩で、その後社会主義に移行するはずではなかったか。「新自由主義=ポスト国家独占資本主義」とかお前ら真面目にやる気あるのか? 
 批判的な関心から「新自由主義」概念を現在用いる論者は、実はこの遺産の整理を済ませていないのではないか? 無意識のうちに一種の段階規定としてそれを用いるのではないか? となると洗い直しはマルクス主義的な段階論それ自体――って稲葉[2018]で言ったよね? 

・科学的な厳密性にこだわらず、批判的スローガンとして・悪口として「新自由主義」を用いたいのであれば、要するに「リベラル・デモクラシーなしでの自由主義」「自治の論理ではなく一方的統治・管理の技法としての自由主義」のことだくらいにしておけばいいのではないか? 
 「それでは19世紀的古典的自由主義と20世紀以降の歴史的コンテキストが不明確になる」という批判に対しては「どのみち「新自由主義」概念は資本主義の歴史的段階規定としては使えない(稲葉[2018])から大差ない」と返せばよい――この辺デリケートな区別を要求しているのはフーコーだが、フーコーの場合も新自由主義を含めて自由主義とは一方的な「統治の技法」である。これならハーヴェイみたいに「中国こそ新自由主義の権化だ」と言っても構わないことになるよよかったね! どうせ君ら科学に関心なんかないんでしょ? 
 社会経済史的実態から独立した、概念史の対象として「新自由主義」を扱うならそれはそれでいいけどね……本日の報告はその辺りを自覚されているのは好ましい。でもそれを通じて科学の概念としてなにか新しいものを作ることにどの程度役に立つんですか?

・スローガンとして以上の内実のある言葉に「新自由主義」を変えていきたいなら上位概念?の「資本主義」「自由主義」から洗い直さないと意味がない(ので稲葉2017も読んでください)。

・報告の内容自体で興味深いのは「行政の民営化・下請化」とでも呼ぶべき事態に報告者の皆さんが寄せる関心であり、それを「小さな政府」として「新自由主義」という道具立てを用いて行いたいという気持ちはわかるが、ここはひとつ落ち着いて、もう少し頭を柔らかく、視野を広くとって考えていただきたい――「新自由主義」を云々するより、ウェーバー以降の比較歴史社会学とか、ノース、グライフ以降の新制度派経済史学でもひっくり返したほうがいいでしょ? 古典古代の収税請負業者とか、近世の植民地経営会社とかとの比較で今日の「新しい公共」を見直すとか。「近い時代との連接性で現代を考えるべき」という発想はマルクス主義と近代化論に共通する悪癖では?

北田報告へのコメント:古典的自由主義がもともと「逆説的」。「自由放任が公益を帰結する」。新自由主義もその繰り返しのはず。マルクス主義的批判は古典的自由主義の欺瞞を突く(「実は一部の階級の利益に奉仕している」)ものであったので、新自由主義批判もその反復になるのは仕方がない。

樫村報告へのコメント:ヨーロッパについては、データ駆動型エコノミー、AI化との関連ではGDPRアングロサクソン的なモデルに対する異議申し立てとしてある種の規範的存在感を発揮しているが、このあたりをどう考えるか? ――と言われても今日の報告者でこれに答えられる人はいませんね。

 

*6月13日感想

 稲葉が「「新自由主義」はバカが使う言葉で使ってるとバカになるから使うのやめろ」といったのに対して報告者たちは「そうは言っても現実に使われているのだからその概念分析にもそれとして意味はあるだろう(概念自体が社会学的対象であるしそれを通じてより適切な現実分析のための概念構築の準備ができるだろう)」と返した。
 問題はそういう迂回路を取ることのコストパフォーマンスである。
 そもそも人は何のために「新自由主義」という言葉を用いるのだろうか? 歴史的な発展段階論の語彙としては大変に問題含みであることは既に示したし、報告者たちもそこは否定しない。報告者たちのためらいはマイナスの価値語・評価語、批判のための概念としての「新自由主義」を捨てきれないというところにあるのかもしれない。
 しかし翻ってここでよく考えてみたとき、そもそも「新自由主義」という言葉で現状を批判するとき、人はこの言葉でなにを指し示しているのか? 稲葉はそこで指し示されている対象があまりに雑多で統一性を欠くために「新自由主義」の語は無効だ、と述べてきたのであるが、では翻って、人々が「新自由主義」(で指示する対象)によって損なわれている、と考えているものについては明示してこなかったことを認めよう。ただこれは多くの人々も実は明示してこなかったことではないだろうか。要するに「新自由主義」を批判の語彙として用いる人々は、新自由主義的な何かによって損なわれるものの価値を高く評価し、守ろうとしているのだ、としよう。ではそれは一体何か? 
 稲葉の直観ではそれは市民社会ハーバーマスのいうところの市民的公共性であり、公共領域と私的領域が分節された上で結合し相互に支え合っているような状態である。「市民社会」「市民的公共性」も「新自由主義」同様の内容空虚なバカ語として用いられる度合いが高いことは否定しないが、稲葉[2008]、稲葉[2017]は、「新自由主義」とは異なりこれらの言葉は内実を持ったものとしてサルベージしうることの論証を目指した。しかしもちろんそれらの語で指し示されるものはは決して安定的なものではない。公共領域の維持はフリーライダー問題に直面し、過少供給気味になることは言うまでもないが、かといってそれを過度に優先とすると私的領域が枯死しかねない。
 ここでいわゆる新自由主義の代表としてオーストリア学派経済学とシカゴ学派経済学のある種のバリエーションを持ち出すと、それは公共領域は自然発生的な水準で必要十分であるとし、現存する公共領域を私的領域を搾取し簒奪するものだとして解体しようとする。それに対してマルクス主義は、現存する公共領域を支配階級が私的に簒奪しているとし、それを真の意味で公共的たらしめようとするが、公と私の関係についての明晰な理解を欠くため、実際には私的領域の解体を志向してしまう。この意味でオーストリア学派的・シカゴ学派新自由主義マルクス主義は表裏をなす。
 ただ現在行われているような市民的公共性への攻撃は、たしかに一部にはNPMなどそれなりに洗練されたものもあるにせよ、もうちょっと身も蓋もない野蛮な何かであるように思われるので、それをあたかも邪悪だが立派なイデオロギー体系による攻撃であるかのようにみなして批判するのはやめた方ががよいのではないか? むしろ今なすべきは、敵の姿を見定めること以上に、自分たちが守ろうとするものの正体を見据え、その上でその内在的な弱点、敵に突かれやすい隙はどこなのか、を確認していくことではないのだろうか? (市民的公共性にはいわばライフサイクルがあり、衰退は避けがたいことについては稲葉[2008]で試論を提示したし、稲葉[2017]ではアセモグル&ロビンソンらの仕事をその「ありそうもなさ」を示すものとして解釈した)。

 

 

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