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われら (光文社古典新訳文庫)

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上野千鶴子の「マルクス主義フェミニズム」について(未定稿)

 2年前に某企画から依頼があって書いたっきり放っておかれて塩漬けになっている原稿をこの際だからお蔵出しします。もし本が出る予定が具体的になったらひっこめるでしょう。

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 上野千鶴子さんの「マルクス主義フェミニズム」に対して読者はいろいろな疑問を持つでしょうが、上野さんのお仕事全体を見通したとき特に重大な疑問となるのは「上野フェミニズムにとってマルクス主義は本当に必要か?」「上野フェミニズムの全体系の中でマルクス主義は整合的に位置づいているのか?」「そもそも上野フェミニズムにとってマルクス主義とは何か?」でしょう。
 上野さんは『家父長制と資本制』において「なぜマルクス主義フェミニズムであってリベラルフェミニズムではないのか?」と自問し、「リベラルフェミニズムは解放の思想ではあってもそこには解放の理論はない」と答えます。つまるところリベラルフェミニズムの枠内では、性差別、男性の女性に対する支配の原因は言ってみれば「封建遺制」、つまりはそうした過去の遺物を突き崩すはずの啓蒙の不足、近代化の不十分に帰せられてしまう(つまりは精神主義、根性論になってしまう)、ということです。近代社会の中で性差別が厳然として継続している理由を解明する社会理論がそこには不在である、と。
 マルクス主義とはまさにこのような、近代社会の中での格差の現存、再生産についての理論的解明を与えるものとして上野さんによって肯定的に評価されています。とはいえ伝統的なマルクス主義の枠内での女性解放論は、上野さんによって「社会主義女性解放論」と呼ばれてマルクス主義フェミニズムとは区別されます。それはあくまでも階級闘争を眼目とする「マルクス主義」であって、性差別と女性解放を固有の課題とする「フェミニズム」ではない。上野さんが「マルクス主義フェミニズム」と呼ぶ立場はあくまでも「フェミニズム」であって「マルクス主義」ではない。マルクス主義に学んでいるだけです。何を学んでいるかというと、「解放の理論」という問題の立て方です。
 上野さんの捉え方からすれば、リベラリズムが「解放の思想」ではあっても「解放の理論」ではないのは、階級支配においても性差別・性支配においても、その原因を「近代化の不足」「啓蒙の努力不足」と捉えてその持続の構造的要因を見ないからです。そしてマルクス主義は前者、階級支配に対する体系的な解明を与えます。しかしながら後者、性支配については取りこぼします。上野さんによれば問題は、マルクス主義者が自分たちの射程距離を見誤り、自らの理論を社会全体についての包括理論とみなして、性支配を階級支配の付随現象と捉えたところにあります。上野さんの言う「社会主義女性解放論」がこれです。
 上野さんはマルクス主義の射程を社会の全域に及ぶものとはみなさず、部分的なものと考え、フェミニズムの固有の主題としての性関係や再生産についてはうまくいかないと考えました。しかしながらもちろん、リベラリズムもここでは失敗しており、マルクス主義とは別に、しかしマルクス主義とはいわば構造的に同型の課題を解明すべき理論として、フェミニズムを召喚するわけです。ここで召喚されるべきフェミニズムの先行理論は、主としていわゆるラディカルフェミニズムのものであり、それはまたフロイト主義を換骨奪胎したものでした。むろんこうしたラディカルフェミニズムの理論やフロイトの左翼的解釈は、広い意味でのマルクス主義者、新左翼の中から、その限界を踏まえて生まれてきたものですので、「元をたどればみんなマルクス主義由来だ」と言えなくもありません。とはいえそんなことを言ったら「元をたどればみんなリベラリズムだ」更に「元をたどればみんな略」となってきりがありませんが。
 ここで厳密にマルクス主義フェミニズムの間に同型性を見て取るならば、その対象としての資本制と家父長制との間にも同型性が成り立つ、と考えることが自然でしょう。つまりマルクス主義においては資本制の下での階級支配が「形式上は自由で対等な取引に基づく、資本家と労働者との間の格差の再生産」として、フェミニズムにおいては家父長制の下での性支配が「形式上は両性の自由な合意に基づく婚姻、家庭形成に基づく男性と女性との間の格差の再生産」となり、前者においては剰余価値という形で、後者においては家事労働という形で、いずれにせよ不払い労働が搾取される、というわけです。(上野さんにおけるフロイト解釈の問題については保留します。)


 このようなアプローチには、あくまで仮説としてみればそれなりの合理性があります。とりあえずこの仮説に立って、やれるところまでやってみればよろしい。とはいえ細かいことを言えば、上野さんの『家父長制と資本制』第一部におけるいわば「原理論」にはいくつもの問題があります。何より問題なのは、マルクス主義の資本制の理論を「市場の理論」とする一方で、家父長制の理論を「家族の理論」とするあたりからしておかしい。両者の間に対応が取れません。まとまった行為・行動の単位としての家族に対応させるなら、市場ではなく資本制的経営、企業でなければならないはずです。そして市場は複数の企業のみならず複数の家族(そしてどの企業からも家族からあぶれた個人も?)が取引しあい、競争しあう開かれた空間のこと、あるいはそうしたネットワークのことです。
 このあたりで混乱をきたしているため、上野さんはのちにしばしば「資本制は」という風に、資本制をあたかも一個のまとまった行動の単位、一種の主体として描写してしまいます。家族については、そのような混乱はそれほど目立ちませんが。
 これに関連してもう一つの問題は、マルクス主義的な資本制の理論の適用範囲と、フェミニズムの家父長制の理論の適用範囲をあらかじめ区切ってしまっている問題です。しかしながら上のように考えるならば、マルクス主義の守備範囲は個々の資本制的経営と、それらを含めた市場経済であるのに対して、フェミニズムの守備範囲がいかにも狭いものに見えてしまいます。実際には上野さんを含めてマルクス主義フェミニストたちは、個々の家族や個別的な性関係のみならず、家族同士のネットワークやのちの言葉で言う「結婚市場」をも射程に入れていますが。しかしながら「資本制の理論」と言ったときに、それらは個々の資本制経営だけではなく、資本制的市場経済全体を相手にするのが普通です。そして「市場経済」とひとたび言ってしまえば、そこに含まれるのは資本制的経営、企業だけではなく、消費者たる家族もです。もちろん上野さんに言わせればマルクス主義はこの家族の「内側」にまで立ち入った分析をすることはないわけですが、外側からとはいえ、否応なく分析のメスを及ぼさずにはいられないはずです。そう考えるなら逆にフェミニズムの家父長制の理論でもって資本制的経営、企業を分析したってよいはずなのですが、上野さんの「原理論」はそこまで説き及んではいません。

 

 これを実際にやってみたのが大沢真理さんの『企業中心社会を超えて』であり、その背後に隠れていたのは論敵たる森建資さんの『雇用関係の生成』であったわけです。森さんのお仕事以降、資本制的経営の一方の核心である雇用関係についての理解は、オーソドックスな経済学――マルクス主義新古典派も含めた――のそれを超えた深みに到達しています。
 それまで近代化とは法的に言えば「身分から契約へ」というシフト、すなわち社会的な関係構築の在り方が「あらかじめ個人に対して、先行する社会秩序の側から身分が割り当てられ、個人はその割り当てにのっとって行動する」という身分的秩序から、「人々はすべて同じ身分=市民に属し同じ権利を享受し、人と人との関係は合意に基づく契約によって構築され規制される」という契約中心の市民社会へのシフトである、と考えられていたわけです。そしてこうした単純な近代化論においては、雇用関係もまた対等な契約関係であり、雇い主による雇人に対する支配もあらかじめ契約による包括的合意を与えられたうえでのものである、と処理されます。家族における両性の関係、そこにおける家事労働の処理も同様です。マルクス主義フェミニズムは、そこに存在する欺瞞的構造、「合意に基づけられた支配」を剔抉するという意義があった、と思想史的、学問史的に位置づけられます。
 森さんの仕事はそうしたいわば「観念的没落史観」をひっくり返します。実際にはそもそも「身分から契約へ」の単純なシフトとして近代化をとらえること自体が不適切ですから、そこにおける建前と本音の乖離を突く、という批判のレトリックも、結論的には正しくともそのプロセスにおいて誤りをはらんでいることになります。現実には身分と契約の関係はもっと錯綜したものであり、近代社会が身分的秩序を一掃したわけでもありません。そもそも人々は取引に際して常に明示的に契約を書き下すわけではないし、また契約を明文で書く際にも、ゼロから新しく書き下ろすのではなく、所与のテンプレートに追随することが普通です。乱暴に言うなら、ある程度複雑でまた時間的射程が長期に及ぶような契約においては、人々は契約を通じてある(部分的かつ一時的な)身分的関係に入るのだ、というべきでしょう。雇用契約や婚姻はそのようなタイプの関係です。
 近代化は市場経済の発展や主権国家の確立とともに、人々を生まれながらに一定の身分的地位に拘束し、かつそれを永続化する、というようなタイプの身分的秩序を廃していきますが、身分的秩序そのものをなくしたりはしません。マルクス主義のストーリーにおいては、労働者階級の起源は没落した小ブルジョワジーや自営農民に求められがちですが、法的な身分形式としては、自由な労働者の起源は奴隷や家内奉公人です。起源における資本制経営、ことに株式会社制度が発達する前、資本調達を家族を中心とした血縁ネットワークに大きく依存していた時代のそれは、元から家父長制的な仕組みであったわけで(つまり現代フェミニズムが言う「家父長制」と、ウェーバーを含めた伝統的な社会学歴史学の概念としての「家父長制」を過度に区別するべきではないでしょう)、雇用関係もその一環でした。
 このような捉え方は、「単純な」近代化論、つまりはリベラリズムの見直しにもつながります。マルクス主義における没落史観、市民革命による身分的抑圧からの一時的な解放(の期待)の後、今度は資本制的搾取に基づく階級支配という新たな抑圧が到来する、という歴史叙述に対して、近代化を通じて徐々に身分的拘束の在り方が変容し、より流動的で対等なものになっていく、というストーリーが対置されるわけです。
 労働組合、労使関係の発展についても、マルクス主義的ストーリーを踏まえると、契約自由の原則の下で、不法な独占として労働組合が最初は弾圧され、のちに契約自由の原則を修正する形で労働組合が合法化される、となりますが、実際には西洋の19世紀を通じて実は雇用関係は自由で対等な契約関係ではなかった――労働者が勝手に辞めると刑事罰を受けることもあったのに対して、雇い主の側にはそうした罰則は適用されない――のです。つまり個人としては自由な契約主体としての労働者が、実質的な対等性を雇い主との間に確保するために、契約自由の原則を踏み越える独占体としての労働組合を必要とした、というわけではありません。個人レベルでの契約自由を雇われる側の労働者が得ることができた時代は、労働組合が合法化された時代とほぼ重なっているのです。
 このような森さんの問題意識と呼応しあう研究がどれくらいあるかは、実際のところ心もとないですが、アメリカ法史のロバート・スタインフェルド、比較植民地史のアレッサンドロ・スタンツィアーニといった研究者が奴隷制と近代的雇用関係の連続性について論じています。また日本の労働研究においても、企業内の職域分離などに家父長制的秩序を見出す大沢さんの仕事はもとより、野村正實さんや東條由紀彦さんの戦後労働史の研究においても、日本的雇用慣行をある種の身分秩序――戦前における職員と工員や、戦後における親会社子会社間、正規雇用と非正規雇用間の格差を身分的差別と捉えるアプローチなどがあります。
 同様の論法を家族に関する法制史・社会史に応用した場合に、どのような結果が得られるかは検討に値するでしょう。もとより没落史観の適用可能性は極めて低いはずです。

 

 さてこのような方向性はマルクス主義に対してリベラリズムの、フェミニズムの文脈で言えばリベラル・フェミニズムの再評価につながるわけですが、それでもやはり「精神論」「努力不足論」「根性論」との批判には答えねばなりません。つまり、近代化のプロセスが進行するなかでも、次々に新たなタイプの格差構造が入れ代わり立ち代わりあらわれるメカニズム、長期的には解消に向かうとはいえ、短期的には安定した均衡として格差が――階級支配や性支配が持続してしまう理由の解明は必要です。この点で落合恵美子さん・落合仁司さんによる批判はやはり不十分だったわけです。「性支配は非効率的だ」で話を終えるのではだめです。
 ただここで現在の差別の理論的分析におけるメインストリームはどのようなものかというと、それは実はほかならぬ上野さん自身も知ってか知らずか動員してしまっていますが、マルクス主義フロイト主義、あるいは伝統的社会学のツールを用いるのではなく、新古典派経済学、合理的選択理論、ゲーム理論のツールを用いる、というアプローチです。競争的市場の中での合理的主体の選択を描くだけでは、格差や差別の持続を論じることは難しいわけですが、不完全競争や不完全情報の中での選択、という枠組みであれば、複数の均衡、より公平な均衡と不公平な均衡や、効率性において差がある諸均衡を描き出すことができます。いわゆる「新しい制度派経済学」です。そして上野さんは『家父長制と資本制』の中でこの「新しい制度派」の先駆者、それもどちらかというとまだゲーム理論を本格的に導入する前の、市場の外における合理的選択の分析を得意とするゲイリー・ベッカー、シカゴ学派の代表的理論家としてしばしば「ネオリベ」の権化呼ばわりされるベッカーの「家族の経済学」を好意的に援用しているのです。
 この辺りについては『家父長制と資本制』第二部以降の上野さんの労働と雇用をめぐる現状分析を見ればもう全く明らかで、そこでは『家父長制と資本制』第一部の狭い意味でのマルクス主義フェミニズムの議論はほとんど役に立っていません。準拠理論はいわゆる分断的労働市場論であり、それはマルクス主義よりは新旧の制度派経済学の流れをくむものです。むろんそれをマルクス主義的と呼ぶこともできなくはありませんが、それはマルクス資本論』のマルクス主義ではなく、20世紀のマルクス主義レーニン帝国主義論』からローザ・ルクセンブルク『資本蓄積論』を踏まえて、20世紀末のイマニュエル・ウォーラーステインにまで至る、世界資本主義を複合システムとしてとらえる立場の一環です。中心と周辺の複合システムとしての資本制経済において、周辺のバッファを担う存在として不安定就労の女性労働者、主婦が位置付けられる、という点ではどちらも変わりはありません。このあたり、つまり20世紀マルクス主義はそもそも資本制一元論ではなく、資本制の中の多様性と変容、資本制とその外部との関係性について議論する枠組みとしてこそ、受け入れられてきた、という問題については、準備中の拙著をご覧ください。そしてこのような複合性についての理論をきちんと科学的に構築するアプローチとしては、いまや「新しい制度派」の合理的選択理論が、マルクス主義に完全に追いつき追い越し、という段階にありますし、上野さん自身も『女たちのサバイバル作戦』などでは川口章『ジェンダー経済格差』に全面的に依拠するなど、そちらの方を当てにしています。

 

 別に上野さんがマルクス主義を捨てたからと言って、それ自体を責めるには当たりません。ただし、なぜそうなったのかについて我々も上野さん自身も理解しておく必要はあるでしょう。さて問題はここで捨てられたのはマルクス主義だけなのか、あるいは近代批判において構造的に同型だった(ラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズムの)フェミニズムもなのか、です。つまり観念的没落史観に立ち、近代の裏切り、欺瞞を告発する思考法が全体として捨てられたのか、それともマルクス主義だけが捨てられたのであって、まだこの「思考の型」自体は上野さんの中に残っているのか、です。
 話を戻しますが、そもそもマルクス主義フェミニズムがどこまで同型なのか、少し考えてみましょう。近代の欺瞞を突き、そのオルタナティヴを提示するというのが、マルクス主義の本義でした。そしてマルクス主義においてオルタナティヴとは社会主義共産主義でした。しかしながら既に20世紀半ばにおいて、正統派マルクス主義の祖国であるソビエトの公式マルクス主義は当てになるものではなくなっています。そして東側社会主義圏の改革派、西側の非共産党マルクス主義者たちの探究の結果、非スターリン化しようとも、従来の社会主義計画経済自体に未来が期待できないことも1980年代にはおおむね共通了解となりました。この時点でマルクス主義オルタナティヴを失い、純然たる批判理論となります。そうなるとマルクス主義は政治的には、リベラリズムの補完役に甘んじるか、完全なニヒリズムになるかのどちらかを強いられます。
 では、フェミニズムの場合にはどうだったでしょうか? フェミニズムの場合、社会主義の凋落のようなことはそれ自体としては起きておらず、むしろ方向性としては勝ち続けてさえいるといえますが、それはあくまでもリベラリズムの線に沿って、「より一層の平等を! 差別の否定を!」という方向であり、かつてのマルクス主義における社会主義共産主義のような、性差別が廃絶された両性の平等のユートピアを提示するという志向はそれほど明確ではなかったかと思います。この意味では、実は初めからフェミニズムは、ラディカル・フェミニズムであれマルクス主義フェミニズムであれ、リベラルへと収斂せざるを得ない運命だったのに、そのことを十分に自覚せずに来ていたのではないか……という疑いが生じます。
 さて、マルクス主義の運命と、それが上野さんにもたらしたと思しき効果についてお話ししましょう。本来のマルクス主義の構想においては、資本制市場経済は長期的には技術革新、経済成長にとっての桎梏となるため、社会主義にとって代わられることが必要で、社会主義の下では一層の科学技術の発展と成長がみられるはずでした。その予想が外れたわけですので、社会主義をあきらめたマルクス主義者に残された選択肢としては、恥も外聞もなく古典的自由主義に――上野さんのいわゆるネオリベに転向するのでなければ、人々の生活水準がひどく悪化しない範囲内で成長を抑え込み、それと引き換えに福祉国家的再分配によって平等を追求すること、くらいしかなくなります。そう、マルクス主義の経済認識を固持したままで社会主義をあきらめると、普通は成長と分配のトレードオフの前で悩まざるを得なくなります。より正確に言うと、事前的な資産の再分配ではない、事後的な所得の再分配は普通は勤労意欲、投資意欲を歪め、総生産を落ち込ませますから、成長にとってはマイナス効果です。
 必ずしもそうはならない、つまり成長と分配のトレードオフが常に成り立つわけではない、と考えるためには、おおざっぱに言って以下の二通りの事態のいずれか、あるいはその両方が経済において成立している必要があります。一つは、ケインズ的な意味での不完全雇用が起こっている場合。この場合には人々の勤労意欲、投資意欲をそれほど歪めることなく再分配が可能です。というより、ケインズ政策による生産の増大、成長の加速の効果が、再分配によるひずみを打ち消すことがありうるからです。いえ、課税と福祉給付による積極的な再分配を行わなくても、完全雇用の達成それ自体が、失業者に職を与えることによって実質的な再分配効果を持つといえるでしょう。第二のケースとしては、たとえ完全雇用が達成されている場合でも、たとえば新興ネットワーク産業が発展していたり、経済全体において応用可能な汎用技術が発展途上にあったりした場合には、経済全体において規模の経済効果が出現するため、分配がより公平で、所得格差が少ない方が成長率が高くなります。(このあたりは拙著『経済学という教養』『不平等との闘い』を参照。)
 上野さんは上記の可能性に気が付いていないため、どうしても「成長と分配のトレードオフ」思考にはまりがちです。上野さんが理解する分断的労働市場論は、失業が恒常化し、周辺部分の不安定就業が景気の調節弁として便利に使われ、女性がそこに追いやられる――ある意味でケインズ的な描像ですが、不完全雇用の主因をケインズ的なマネタリーな要因よりも、中枢部分の正規雇用労働者による良好な雇用機会の独占、その結果としての労働市場の歪み、に求めていますので、ケインズ的な金融政策の効果に対しては否定的となります。このあたりの、経済におけるマネタリーな側面の軽視、実体経済の影、ないしそれを歪める不健全な部分として金融セクターをとらえるというイデオロギー的偏向は、「生産的労働/不生産的労働」の二分法を脱しなかったマルクス主義から引きずる偏見です。家事労働を不生産的労働と位置付けた正統派マルクス主義の批判者としての上野さんが、このような偏見にからめとられているとしたら、何とも皮肉なことです。
 と同時に上野さんの中には、これはマルクス主義というより本来のフェミニズム、そしてリベラリズムから引き継いできた、平等とは重なり合いつつも別個の原理である公平性、フェアネスへの関心もまたあるのでしょう。こうした男性中心の正規労働者による、女性が多い不安定就労者の搾取(「搾取」の定義次第ではこれも立派な「搾取」です。そもそもマルクス主義的な意味での「搾取」は意図的な略奪とは違う、市場を通じた構造的な分配効果です)を是正するために、労働市場の規制を緩和して正規従業員の長期雇用を破壊する、という戦略にも時に心が動いているさまもうかがわれます。社会全体の不平等は増えても、男女間の格差は縮むかもしれない。むろん上野さんはそれを手放しで是とはしないでしょうが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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