稲葉振一郎『ナウシカ解読 増補版』(勁草書房)刊行記念トークイベント 「ハッピーエンドの試練とバッドエンド症候群」(稲葉振一郎×山川賢一)配布資料

 実際のトークではとてもではないがこの半分も話せてはいません。

 

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2020年1月31日 『ナウシカ解読増補版』刊行記念トークセッションのためのメモ

 

稲葉振一郎

 

1.山川賢一のプロジェクト:

ピンカー、デネットドーキンス的な現代啓蒙(無神論)の立場からポストモダン左派(「啓蒙の弁証法」的ニヒリズム)を批判している。

しかしその単なる反転(例えば「暗黒啓蒙」)に行かないためにはどうすればよいのか?

ex.ドーキンスの宗教否定は裏返しのファナティシズムの危険

 

単なる現世否定と破滅志向は革命志向や過激な進歩主義の裏返しにしか過ぎない。問題はギアをニュートラルにすること。しかしこれが難しい。

ex.ナウシカのやったことは、ただ未来を餌に人類を管理する権力を拒絶したこと、人類を滅ぼそうとしたわけではない――しかし結果的に、副次的効果として、人類滅亡の可能性を高めた?

 

私見では「啓蒙の弁証法」は単なる錯覚ではない。平均すれば人類の福祉は向上しているし、直面するリスクも平均的に言えば小さくなっている。しかしながらそれと裏腹に、低頻度の大規模なリスクがクローズアップされる。ジェノサイドの頻度は低くなっても、一回当たりのそれが大量破壊兵器や組織の効率化などのせいで大規模化する可能性がある。また非人為的な自然的リスクについても、従来は未知だった低頻度の大規模リスク(破局噴火や天体衝突)等について、科学的知見が増大して可視化される。またそのようなリスクが与える心理的効果は(双曲線割引のせいで?)過大に評価されがちとなる。単なる楽観論でも悲観論でもない不確定性こそ(通俗的な意味での?)「弁証法」(という言葉に込められた気分)ではあるまいか?(ex.ボストロムの存亡リスク論)

 

2.

ナウシカ』の恐ろしいところは、読者が「自分たちと同じ人間だ」と思い込んでいた登場人物たちが実は人間ではなかったと終幕で知らされるところ。それによって人間の境界が揺らぐところ。

「でも心が通じているから大丈夫」と言い切れるか? 

「同じ人間だから心が通じる」のではなく、「心が通じるから同じ人間だ」への転換がなされているが、「心」に目に見えて手で触れる実体はない。要するにコミュニケーションが事実として継続しているかどうかだけが問題で、その継続をあらかじめ保証してくれる実体(としての心とか種の同一性とか)はない。

 

人間が滅びた後、人間を継承し、人間の真似をしている生き物たちを描くSFやファンタジーがないわけではないが、逆にそれを「人間ではないもの」と断じられる根拠は案外と薄弱である。(ディレイニーアインシュタイン交点』田中ロミオ『人類は滅亡しました』等。)

 

伊藤計劃の場合:注意深く意図的に排除されている「ロボット」「AI」というテーマ。その代りに描かれるのは俗に言えば「人間の(比喩的な意味での)ロボット化」つまりは「ソンビ化」である。『虐殺器官』では意識の一部としての感情が切り取られていき、『ハーモニー』では人間の意識が消滅する。『屍者の帝国』では意識のないゾンビと意識ある人間の共存が描かれる。

しかし意識とは何か? 『ハーモニー』では意識と自由意志とを慎重に区別したうえで、両者の連動の可能性を示唆しているところが興味深い。

 

チャーマーズの「哲学的ゾンビ」はあくまでも意識に焦点を当てているが、ごくごく通俗的なレベルでのゾンビと人間の区別、というよりおよそ人間ならざるものと人間の区別の指標としては、意識(受動性patiency)と自由意志と創造力(能動性agency)をごっちゃにした「心」のあるなしに求められることが多いだろう。しかしながらチャーマーズを含めて、現代ではそのような議論は、洗練されたレベルでは用いられない。そもそも意識に比べると自由意志の定義はかなり難しい(意識でさえ決してやさしいわけではないが、それ以上に)。だから意識なるものの実在が積極的に認められたとしても、それが自由意志の主体と即認められるわけではない。たとえば「随伴現象説」では意識は身体運動の単なる副次的な帰結であって、身体運動の、更に言えば行為の因果機序の中に位置を持たない、あるいは持つとしても結果という水準にしかその位置を持たない。つまり常識に反して、意識は(そして意図が意識の一部だとしたら、意図も)身体運動の(そして行為の?)原因ではない。もし仮に意識がそのようなものなら、それは自由意志と無関係に見える。

 

人間の尊厳の根拠をagencyに求めるかpatiencyに求めるか、あるいは両者を密接不可分と考えるか(感情とはそのような契機である)、はなかなか厄介な問題である。しかし「自由意志」はそもそも何のことだかよくわからないし、「創造力」がランダムな試行錯誤と本質的に異質なものだという証拠はない。「人間は自由で創造力がある」という思い込みは、我々が自分の「自由意志」や「創造力」の正体をそもそも知らないことに立脚した錯覚ではないのか? という疑問が立てられる。しかしながら意識についてはそうはいかない。

だがもちろん、誰も他者の意識を観測することはできず、それについては他者の行動から想定するしかないのはもちろんだが。

 

いずれにせよ伊藤の『ハーモニー』が描く世界は(叙述トリックを無視して真に受けるならば)意識のないゾンビたちの世界である。しかしおそらくそこでは「自由意志」はともかく「創造力」は存在しており、仮にそこに意識あるものが放り込まれたとしても、彼・彼女は周囲のゾンビたちの意識のあるなしを判別することはできないだろう――現に我々自身が互いについてそうであるように。

(『ハーモニー』的世界はボストロムが想定する実存リスク(意識のないスーパーインテリジェンスに人類が駆逐される)の一種である。意識に進化的適応上の優位性が常にあるとは限らない、という彼の懐疑にはもちろんそれなりの価値はある。)

 

3.

だがこの「意識」をこそ尊厳の核心とする美学や倫理というものを考えることに意味がないわけではもちろんない。今回はそれを「顔の美学」と呼んだ。しかしそれは啓蒙でも反啓蒙でも暗黒啓蒙でもない「ギアをニュートラルに入れ続けること」としか呼びようがない。

たとえば佐藤亜紀は「泣き女」という。「泣き女の仕事は笑うことも含む」

あるいは永井均は「無視する愛」という。しかしこれはおそらく厳密に言えば不適切である。本当に無視していてはだめだ。我々は蟻を無視して踏みつぶす。踏みつぶさないためには気づかねばならない。そのうえで「余計なことはしない」ことは、厳密に言うと「無視する」こととは違う。

あるいは田川建三は「逆説的反抗」という。

 

4.

*ハッピーエンドの困難

――なぜハッピーエンドはかくも困難なのか?

ピンカー=リドリー的楽観からの逆算:なぜ啓蒙的楽観主義は成り立つのか?

 →観測選択効果「すでにあなたは現実に存在できる程度には幸運である」

懐疑1.当然ながらその幸運がこれからも続くとは限らない。

cf.これまで失われた可能性への挽歌としての小松左京『結晶星団』

懐疑2.そもそも現在が幸運とは思えない。ex.反出生主義

 

「すでにあなたは現実に存在できる程度には幸運である」これが「ハッピーエンド」、つまり「エンド」であるならば、物語は必然的に昔語りにならざるを得ない。ここには別におかしなところはない。

「だとしてもその幸運はいずれ尽きる」これが「バッドエンド」、つまり「エンド」であるとしたら、それはまだ訪れてもいない終わり(エンド)の先取りでしかない?

 

「終わり」を求めない立場(ex.ボストロムの「無限倫理Infinit Ethics」、イーガン)

――史上ほとんどの物語において不死への希求はむなしいもの、あるいは邪悪なものと切り捨てられたが、果たしてそれは本来的に邪悪でしかありえないのかどうか、は定かではない。

 

参考