木庭顕の西洋中心主義

 木庭顕が協力した朝日の記事に対して一部から「今更のヨーロッパ中心史観」「中世・イスラーム無視」とか頓珍漢な噴き上がりがあったようだ。後者については「紙面が限られていることを無視したないものねだり」ですませてもよいし、そもそもイスラームが古典期ギリシア・ローマの継承者であり、後期中世と人文主義における古典受容がそれを経由していることなど別に言うまでもない前提だろうと茶々を入れてもよいのだが、前者についてはそうもいかない。
 ここではっきり言っておくと、木庭史観は当然ながらものすごい「西洋中心主義」である。ただしそこでいう「西洋」とは「古典期ギリシア・ローマの継承」くらいの意味である。そのように考えたとき、日本人は当然のこととして西欧人もまた「西洋によって知的に植民地化され教化された蛮族」に他ならない。「政治とは何か、法とは何か」を絶えず問い返しつつ実践することなしには、誰も「西洋の正統なる継承者」と自認して、安穏とふんぞり返る資格を持たない。
 そもそも木庭によれば「政治」も「法」も普通名詞ではなく固有名詞であり、古典期ギリシアに生じ共和制ローマでリファインされた特異な仕組みのことに他ならない。それ以前の人類史においては、その原型や前駆形態こそあれ「政治」も「法」も存在しないし、それ以降もその継承、模倣、あるいは似て非なるイミテーションがあるだけだ。政治とは単なる権力現象ではなく、法とは単なる規則ではない。
 人類普遍の「政治」とか「法」の基本形を「西洋」が体現しており、他の遅れた地域はそれを模範として追随する、とかいうのではない。「政治」も「法」も今でいう南欧の片田舎で生まれたごくごく特異な現象なのだ。それが「一人ひとりの人間を平等に大切にする」という、こちらはほどほどに人類普遍と言えなくもないアイディアを、社会的に実装する仕組みの、特異な一タイプに過ぎない。問題はそれよりましな仕組みを我々はいまだ思いついていない、ということだ。キリスト教イスラームなどの唯一神教の仕組みのうちのいくつかが、せいぜい二番手としての地位を主張するのみである。

 

 

誰のために法は生まれた

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